正文 十一 - 14

「飛んだ事になって來たね」と迷亭君が真面目にからかうあとに付いて、獨仙君が「面白い境界(きょうがい)だ」と少しく感心したようすに見えた。

「もしこの狀態が長くつづいたら、私はあすの朝まで、せっかくのヴァイオリンも弾かずに、茫(ぼん)やり一枚岩の上に坐ってたかも知れないです……」

「狐でもいる所かい」と東風君がきいた。

「こう雲う具合で、自他の區別もなくなって、生きているか死んでいるか方角のつかない時に、突然後(うし)ろの古沼の奧でギャーと雲う聲がした。……」

「いよいよ出たね」

「その聲が遠く反響を起して満山の秋の梢(こずえ)を、野分(のわき)と共に渡ったと思ったら、はっと我に帰った……」

「やっと安心した」と迷亭君が胸を撫(な)でおろす真似をする。

「大死一番(たいしいちばん)乾坤新(けんこんあらた)なり」と獨仙君は目くばせをする。寒月君にはちっとも通じない。

「それから、我に帰ってあたりを見廻わすと、庚申山(こうしんやま)一面はしんとして、雨垂れほどの音もしない。はてな今の音は何だろうと考えた。人の聲にしては鋭すぎるし、鳥の聲にしては大き過ぎるし、猿の聲にしては――この辺によもや猿はおるまい。何だろう?何だろうと雲う問題が頭のなかに起ると、これを解釈しようと雲うので今まで靜まり返っていたやからが、紛然(ふんぜん)雑然(ざつぜん)糅然(じゅうぜん)としてあたかもコンノート殿下歓迎の當時における都人士狂亂の態度を以(もっ)て脳裏をかけ廻る。そのうちに総身(そうしん)の毛穴が急にあいて、焼酎(しょうちゅう)を吹きかけた毛脛(けずね)のように、勇気、膽力、分別、沈著などと號するお客様がすうすうと蒸発して行く。心臓が肋骨の下でステテコを踴り出す。両足が紙鳶(たこ)のうなりのように震動をはじめる。これはたまらん。いきなり、毛布(けっと)を頭からかぶって、ヴァイオリンを小脇に掻(か)い込んでひょろひょろと一枚岩を飛び下りて、一目散に山道八丁を麓(ふもと)の方へかけ下りて、宿へ帰って布団(ふとん)へくるまって寢てしまった。今考えてもあんな気味のわるかった事はないよ、東風君」

「それから」

「それでおしまいさ」

「ヴァイオリンは弾かないのかい」

「弾きたくっても、弾かれないじゃないか。ギャーだもの。君だってきっと弾かれないよ」

「何だか君の話は物足りないような気がする」

「気がしても事実だよ。どうです先生」と寒月君は一座を見廻わして大得意のようすである。

「ハハハハこれは上出來。そこまで持って行くにはだいぶ苦心慘憺たるものがあったのだろう。僕は男子のサンドラ·ベロニが東方君子の邦(くに)に出現するところかと思って、今が今まで真面目に拝聴していたんだよ」と雲った迷亭君は誰かサンドラ·ベロニの講釈でも聞くかと思のほか、何にも質問が出ないので「サンドラ·ベロニが月下に竪琴(たてごと)を弾いて、以太利亜風(イタリアふう)の歌を森の中でうたってるところは、君の庚申山(こうしんやま)へヴァイオリンをかかえて上(のぼ)るところと同曲にして異巧なるものだね。惜しい事に向うは月中(げっちゅう)の嫦娥(じょうが)を驚ろかし、君は古沼(ふるぬま)の怪狸(かいり)におどろかされたので、際(きわ)どいところで滑稽(こっけい)と崇高の大差を來たした。さぞ遺憾(いかん)だろう」と一人で説明すると、

「そんなに遺憾ではありません」と寒月君は存外平気である。

「全體山の上でヴァイオリンを弾こうなんて、ハイカラをやるから、おどかされるんだ」と今度は主人が酷評を加えると、

「好漢(こうかん)この鬼窟裏(きくつり)に向って生計を営む。惜しい事だ」と獨仙君は嘆息した。すべて獨仙君の雲う事は決して寒月君にわかったためしがない。寒月君ばかりではない、おそらく誰にでもわからないだろう。

「そりゃ、そうと寒月君、近頃でも矢張り學校へ行って珠(たま)ばかり磨いてるのかね」と迷亭先生はしばらくして話頭を転じた。

「いえ、こないだうちから國へ帰省していたもんですから、暫時(ざんじ)中止の姿です。珠ももうあきましたから、実はよそうかと思ってるんです」

「だって珠が磨けないと博士にはなれんぜ」と主人は少しく眉をひそめたが、本人は存外気楽で、

「博士ですか、エヘヘヘヘ。博士ならもうならなくってもいいんです」

「でも結婚が延びて、雙方困るだろう」

「結婚って誰の結婚です」

「君のさ」

「私が誰と結婚するんです」

「金田の令嬢さ」

「へええ」

「へえって、あれほど約束があるじゃないか」

「約束なんかありゃしません、そんな事を言い觸(ふ)らすなあ、向うの勝手です」

「こいつは少し亂暴だ。ねえ迷亭、君もあの一件は知ってるだろう」

「あの一件た、鼻事件かい。あの事件なら、君と僕が知ってるばかりじゃない、公然の秘密として天下一般に知れ渡ってる。現に萬朝(まんちょう)なぞでは花聟花嫁と雲う表題で両君の寫真を紙上に掲ぐるの栄はいつだろう、いつだろうって、うるさく僕のところへ聞きにくるくらいだ。東風君なぞはすでに鴛鴦歌(えんおうか)と雲う一大長篇を作って、三箇月前(ぜん)から待ってるんだが、寒月君が博士にならないばかりで、せっかくの傑作も寶の持ち腐れになりそうで心配でたまらないそうだ。ねえ、東風君そうだろう」

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