「當り前さ。君のは打つのじゃない。ごまかすのだ」
「それが本因坊流、金田流、當世紳士流さ。――おい苦沙彌先生、さすがに獨仙君は鎌倉へ行って萬年漬を食っただけあって、物に動じないね。どうも敬々服々だ。碁はまずいが、度胸は據(すわ)ってる」
「だから君のような度胸のない男は、少し真似をするがいい」と主人が後(うし)ろ向(むき)のままで答えるやいなや、迷亭君は大きな赤い舌をぺろりと出した。獨仙君は毫(ごう)も関せざるもののごとく、「さあ君の番だ」とまた相手を促(うなが)した。
「君はヴァイオリンをいつ頃から始めたのかい。僕も少し習おうと思うのだが、よっぽどむずかしいものだそうだね」と東風君が寒月君に聞いている。
「うむ、一と通りなら誰にでも出來るさ」
「同じ芸術だから詩歌(しいか)の趣味のあるものはやはり音楽の方でも上達が早いだろうと、ひそかに恃(たの)むところがあるんだが、どうだろう」
「いいだろう。君ならきっと上手になるよ」
「君はいつ頃から始めたのかね」
「高等學校時代さ。――先生私(わたく)しのヴァイオリンを習い出した顛末(てんまつ)をお話しした事がありましたかね」
「いいえ、まだ聞かない」
「高等學校時代に先生でもあってやり出したのかい」
「なあに先生も何もありゃしない。獨習さ」
「全く天才だね」
「獨習なら天才と限った事もなかろう」と寒月君はつんとする。天才と雲われてつんとするのは寒月君だけだろう。
「そりゃ、どうでもいいが、どう雲う風に獨習したのかちょっと聞かしたまえ。參考にしたいから」
「話してもいい。先生話しましょうかね」
「ああ話したまえ」
「今では若い人がヴァイオリンの箱をさげて、よく往來などをあるいておりますが、その時分は高等學校生で西洋の音楽などをやったものはほとんどなかったのです。ことに私のおった學校は田舎(いなか)の田舎で麻裏草履(あさうらぞうり)さえないと雲うくらいな質朴な所でしたから、學校の生徒でヴァイオリンなどを弾(ひ)くものはもちろん一人もありません。……」
「何だか面白い話が向うで始まったようだ。獨仙君いい加減に切り上げようじゃないか」
「まだ片づかない所が二三箇所ある」
「あってもいい。大概な所なら、君に進上する」
「そう雲ったって、貰う訳にも行かない」
「禪學者にも似合わん幾帳面(きちょうめん)な男だ。それじゃ一気呵成(いっきかせい)にやっちまおう。――寒月君何だかよっぽど面白そうだね。――あの高等學校だろう、生徒が裸足(はだし)で登校するのは……」
「そんな事はありません」
「でも、皆(みん)なはだしで兵式體操をして、廻れ右をやるんで足の皮が大変厚くなってると雲う話だぜ」
「まさか。だれがそんな事を雲いました」
「だれでもいいよ。そうして弁當には偉大なる握り飯を一個、夏蜜柑(なつみかん)のように腰へぶら下げて來て、それを食うんだって雲うじゃないか。食うと雲うよりむしろ食いつくんだね。すると中心から梅干が一個出て來るそうだ。この梅干が出るのを楽しみに塩気のない周囲を一心不亂に食い欠いて突進するんだと雲うが、なるほど元気旺盛(おうせい)なものだね。獨仙君、君の気に入りそうな話だぜ」
「質朴剛健でたのもしい気風だ」
「まだたのもしい事がある。あすこには灰吹(はいふ)きがないそうだ。僕の友人があすこへ奉職をしている頃吐月峰(とげつほう)の印(いん)のある灰吹きを買いに出たところが、吐月峰どころか、灰吹と名づくべきものが一個もない。不思議に思って、聞いて見たら、灰吹きなどは裏の藪(やぶ)へ行って切って來れば誰にでも出來るから、売る必要はないと澄まして答えたそうだ。これも質朴剛健の気風をあらわす美譚(びだん)だろう、ねえ獨仙君」