「いや非常な人で、それでその人が皆わしをじろじろ見るので――どうも近來は人間が物見高くなったようでがすな。昔(むか)しはあんなではなかったが」
「ええ、さよう、昔はそんなではなかったですな」と老人らしい事を雲う。これはあながち主人が知(し)っ高振(たかぶ)りをした訳ではない。ただ朦朧(もうろう)たる頭脳から好い加減に流れ出す言語と見れば差(さ)し支(つか)えない。
「それにな。皆この甲割(かぶとわ)りへ目を著けるので」
「その鉄扇は大分(だいぶ)重いものでございましょう」
「苦沙彌君、ちょっと持って見たまえ。なかなか重いよ。伯父さん持たして御覧なさい」
老人は重たそうに取り上げて「失禮でがすが」と主人に渡す。京都の黒谷(くろだに)で參詣人(さんけいにん)が蓮生坊(れんしょうぼう)の太刀(たち)を戴(いただ)くようなかたで、苦沙彌先生しばらく持っていたが「なるほど」と雲ったまま老人に返卻した。
「みんながこれを鉄扇鉄扇と雲うが、これは甲割(かぶとわり)と稱(とな)えて鉄扇とはまるで別物で……」
「へえ、何にしたものでございましょう」
「兜を割るので、――敵の目がくらむ所を撃(う)ちとったものでがす。楠正成(くすのきまさしげ)時代から用いたようで……」
「伯父さん、そりゃ正成の甲割ですかね」
「いえ、これは誰のかわからん。しかし時代は古い。建武時代(けんむじだい)の作かも知れない」
「建武時代かも知れないが、寒月君は弱っていましたぜ。苦沙彌君、今日帰りにちょうどいい機會だから大學を通り抜けるついでに理科へ寄って、物理の実験室を見せて貰ったところがね。この甲割が鉄だものだから、磁力の器械が狂って大騒ぎさ」
「いや、そんなはずはない。これは建武時代の鉄で、性(しょう)のいい鉄だから決してそんな虞(おそ)れはない」
「いくら性のいい鉄だってそうはいきませんよ。現に寒月がそう雲ったから仕方がないです」
「寒月というのは、あのガラス球(だま)を磨(す)っている男かい。今の若さに気の毒な事だ。もう少し何かやる事がありそうなものだ」
「可愛想(かわいそう)に、あれだって研究でさあ。あの球を磨り上げると立派な學者になれるんですからね」
「玉を磨(す)りあげて立派な學者になれるなら、誰にでも出來る。わしにでも出來る。ビードロやの主人にでも出來る。ああ雲う事をする者を漢土(かんど)では玉人(きゅうじん)と稱したもので至って身分の軽いものだ」と雲いながら主人の方を向いて暗に賛成を求める。
「なるほど」と主人はかしこまっている。
「すべて今の世の學問は皆形而下(けいじか)の學でちょっと結構なようだが、いざとなるとすこしも役には立ちませんてな。昔はそれと違って侍(さむらい)は皆命懸(いのちが)けの商買(しょうばい)だから、いざと雲う時に狼狽(ろうばい)せぬように心の修業を致したもので、御承知でもあらっしゃろうがなかなか玉を磨ったり針金を綯(よ)ったりするような容易(たやす)いものではなかったのでがすよ」
「なるほど」とやはりかしこまっている。
「伯父さん心の修業と雲うものは玉を磨る代りに懐手(ふところで)をして坐り込んでるんでしょう」
「それだから困る。決してそんな造作(ぞうさ)のないものではない。孟子(もうし)は求放心(きゅうほうしん)と雲われたくらいだ。邵康節(しょうこうせつ)は心要放(しんようほう)と説いた事もある。また仏家(ぶっか)では中峯和尚(ちゅうほうおしょう)と雲うのが具不退転(ぐふたいてん)と雲う事を教えている。なかなか容易には分らん」
「とうてい分りっこありませんね。全體どうすればいいんです」
「御前は沢菴禪師(たくあんぜんじ)の不動智神妙録(ふどうちしんみょうろく)というものを読んだ事があるかい」
「いいえ、聞いた事もありません」
「心をどこに置こうぞ。敵の身の働(はたらき)に心を置けば、敵の身の働に心を取らるるなり。敵の太刀(たち)に心を置けば、敵の太刀に心を取らるるなり。敵を切らんと思うところに心を置けば、敵を切らんと思うところに心を取らるるなり。わが太刀に心を置けば、我太刀に心を取らるるなり。われ切られじと思うところに心を置けば、切られじと思うところに心を取らるるなり。人の構(かまえ)に心を置けば、人の構に心を取らるるなり。とかく心の置きどころはないとある」
「よく忘れずに暗誦(あんしょう)したものですね。伯父さんもなかなか記憶がいい。長いじゃありませんか。苦沙彌君分ったかい」
「なるほど」と今度もなるほどですましてしまった。
「なあ、あなた、そうでござりましょう。心をどこに置こうぞ、敵の身の働に心を置けば、敵の身の働に心を取らるるなり。敵の太刀に心を置けば……」
「伯父さん苦沙彌君はそんな事は、よく心得ているんですよ。近頃は毎日書斎で精神の修養ばかりしているんですから。客があっても取次に出ないくらい心を置き去りにしているんだから大丈夫ですよ」
「や、それは御奇特(ごきどく)な事で――御前などもちとごいっしょにやったらよかろう」
「へへへそんな暇はありませんよ。伯父さんは自分が楽なからだだもんだから、人も遊んでると思っていらっしゃるんでしょう」