正文 九 - 3

かくとも知らぬ主人ははなはだ熱心なる容子(ようす)をもって一張來(いっちょうらい)の鏡を見つめている。元來鏡というものは気味の悪いものである。深夜蝋燭(ろうそく)を立てて、広い部屋のなかで一人鏡を覗(のぞ)き込むにはよほどの勇気がいるそうだ。吾輩などは始めて當家の令嬢から鏡を顔の前へ押し付けられた時に、はっと仰天(ぎょうてん)して屋敷のまわりを三度馳(か)け回ったくらいである。いかに白晝といえども、主人のようにかく一生懸命に見つめている以上は自分で自分の顔が怖(こわ)くなるに相違ない。ただ見てさえあまり気味のいい顔じゃない。ややあって主人は「なるほどきたない顔だ」と獨(ひと)り言(ごと)を雲った。自己の醜を自白するのはなかなか見上げたものだ。様子から雲うとたしかに気違の所作(しょさ)だが言うことは真理である。これがもう一歩進むと、己(おの)れの醜悪な事が怖(こわ)くなる。人間は吾身が怖ろしい悪黨であると雲う事実を徹骨徹髄に感じた者でないと苦労人とは雲えない。苦労人でないととうてい解脫(げだつ)は出來ない。主人もここまで來たらついでに「おお怖(こわ)い」とでも雲いそうなものであるがなかなか雲わない。「なるほどきたない顔だ」と雲ったあとで、何を考え出したか、ぷうっと頬(ほ)っぺたを膨(ふく)らました。そうしてふくれた頬っぺたを平手(ひらて)で二三度叩(たた)いて見る。何のまじないだか分らない。この時吾輩は何だかこの顔に似たものがあるらしいと雲う感じがした。よくよく考えて見るとそれは御三(おさん)の顔である。ついでだから御三の顔をちょっと紹介するが、それはそれはふくれたものである。この間さる人が穴守稲荷(あなもりいなり)から河豚(ふぐ)の提燈(ちょうちん)をみやげに持って來てくれたが、ちょうどあの河豚提燈(ふぐちょうちん)のようにふくれている。あまりふくれ方が殘酷なので眼は両方共紛失している。もっとも河豚のふくれるのは萬遍なく真丸(まんまる)にふくれるのだが、お三とくると、元來の骨格が多角性であって、その骨格通りにふくれ上がるのだから、まるで水気(すいき)になやんでいる六角時計のようなものだ。御三が聞いたらさぞ怒(おこ)るだろうから、御三はこのくらいにしてまた主人の方に帰るが、かくのごとくあらん限りの空気をもって頬(ほ)っぺたをふくらませたる彼は前(ぜん)申す通り手のひらで頬(ほっ)ぺたを叩きながら「このくらい皮膚が緊張するとあばたも眼につかん」とまた獨(ひと)り語(ごと)をいった。

こんどは顔を橫に向けて半面に光線を受けた所を鏡にうつして見る。「こうして見ると大変目立つ。やっぱりまともに日の向いてる方が平(たいら)に見える。奇體な物だなあ」と大分(だいぶ)感心した様子であった。それから右の手をうんと伸(のば)して、出來るだけ鏡を遠距離に持って行って靜かに熟視している。「このくらい離れるとそんなでもない。やはり近過ぎるといかん。――顔ばかりじゃない何でもそんなものだ」と悟ったようなことを雲う。次に鏡を急に橫にした。そうして鼻の根を中心にして眼や額や眉(まゆ)を一度にこの中心に向ってくしゃくしゃとあつめた。見るからに不愉快な容貌(ようぼう)が出來上ったと思ったら「いやこれは駄目だ」と當人も気がついたと見えて早々(そうそう)やめてしまった。「なぜこんなに毒々しい顔だろう」と少々不審の體(てい)で鏡を眼を去る三寸ばかりの所へ引き寄せる。右の人指しゆびで小鼻を撫(な)でて、撫でた指の頭を機の上にあった吸取(すいと)り紙(がみ)の上へ、うんと押しつける。吸い取られた鼻の膏(あぶら)が丸(ま)るく紙の上へ浮き出した。いろいろな芸をやるものだ。それから主人は鼻の膏を塗抹(とまつ)した指頭(しとう)を転じてぐいと右眼(うがん)の下瞼(したまぶた)を裏返して、俗に雲うべっかんこうを見事にやって退(の)けた。あばたを研究しているのか、鏡と睨(にら)め競(くら)をしているのかその辺は少々不明である。気の多い主人の事だから見ているうちにいろいろになると見える。それどころではない。もし善意をもって蒟蒻(こんにゃく)問答的(もんどうてき)に解釈してやれば主人は見性自覚(けんしょうじかく)の方便(ほうべん)としてかように鏡を相手にいろいろな仕草(しぐさ)を演じているのかも知れない。すべて人間の研究と雲うものは自己を研究するのである。天地と雲い山川(さんせん)と雲い日月(じつげつ)と雲い星辰(せいしん)と雲うも皆自己の異名(いみょう)に過ぎぬ。自己を措(お)いて他に研究すべき事項は誰人(たれびと)にも見出(みいだ)し得ぬ訳だ。もし人間が自己以外に飛び出す事が出來たら、飛び出す途端に自己はなくなってしまう。しかも自己の研究は自己以外に誰もしてくれる者はない。いくら仕てやりたくても、貰いたくても、出來ない相談である。それだから古來の豪傑はみんな自力で豪傑になった。人のお蔭で自己が分るくらいなら、自分の代理に牛肉を喰わして、堅いか柔かいか判斷の出來る訳だ。朝(あした)に法を聴き、夕(ゆうべ)に道を聴き、梧前燈下(ごぜんとうか)に書巻を手にするのは皆この自証(じしょう)を挑撥(ちょうはつ)するの方便(ほうべん)の具(ぐ)に過ぎぬ。人の説く法のうち、他の弁ずる道のうち、乃至(ないし)は五車(ごしゃ)にあまる蠧紙堆裏(としたいり)に自己が存在する所以(ゆえん)がない。あれば自己の幽霊である。もっともある場合において幽霊は無霊(むれい)より優るかも知れない。影を追えば本體に逢著(ほうちゃく)する時がないとも限らぬ。多くの影は大抵本體を離れぬものだ。この意味で主人が鏡をひねくっているなら大分(だいぶ)話せる男だ。エピクテタスなどを鵜呑(うのみ)にして學者ぶるよりも遙(はる)かにましだと思う。

上一章目錄+書簽下一章