正文 八 - 12

「しかし僕なんか、いつまで立っても合いそうにないぜ、心細いね」

「あまり合わない背広(せびろ)を無理にきると綻(ほころ)びる。喧嘩(けんか)をしたり、自殺をしたり騒動が起るんだね。しかし君なんかただ面白くないと雲うだけで自殺は無論しやせず、喧嘩だってやった事はあるまい。まあまあいい方だよ」

「ところが毎日喧嘩ばかりしているさ。相手が出て來なくっても怒っておれば喧嘩だろう」

「なるほど一人喧嘩(ひとりげんか)だ。面白いや、いくらでもやるがいい」

「それがいやになった」

「そんならよすさ」

「君の前だが自分の心がそんなに自由になるものじゃない」

「まあ全體何がそんなに不平なんだい」

主人はここにおいて落雲館事件を始めとして、今戸焼(いまどやき)の狸(たぬき)から、ぴん助、きしゃごそのほかあらゆる不平を挙げて滔々(とうとう)と哲學者の前に述べ立てた。哲學者先生はだまって聞いていたが、ようやく口を開(ひら)いて、かように主人に説き出した。

「ぴん助やきしゃごが何を雲ったって知らん顔をしておればいいじゃないか。どうせ下らんのだから。中學の生徒なんか構う価値があるものか。なに妨害になる。だって談判しても、喧嘩をしてもその妨害はとれんのじゃないか。僕はそう雲う點になると西洋人より昔(むか)しの日本人の方がよほどえらいと思う。西洋人のやり方は積極的積極的と雲って近頃大分(だいぶ)流行(はや)るが、あれは大(だい)なる欠點を持っているよ。第一積極的と雲ったって際限がない話しだ。いつまで積極的にやり通したって、満足と雲う域とか完全と雲う境(さかい)にいけるものじゃない。向(むこう)に檜(ひのき)があるだろう。あれが目障(めざわ)りになるから取り払う。とその向うの下宿屋がまた邪魔になる。下宿屋を退去させると、その次の家が癪(しゃく)に觸る。どこまで行っても際限のない話しさ。西洋人の遣(や)り口(くち)はみんなこれさ。ナポレオンでも、アレキサンダーでも勝って満足したものは一人もないんだよ。人が気に喰わん、喧嘩をする、先方が閉口しない、法庭(ほうてい)へ訴える、法庭で勝つ、それで落著と思うのは間違さ。心の落著は死ぬまで焦(あせ)ったって片付く事があるものか。寡人政治(かじんせいじ)がいかんから、代議政體(だいぎせいたい)にする。代議政體がいかんから、また何かにしたくなる。川が生意気だって橋をかける、山が気に喰わんと雲って隧道(トンネル)を堀る。交通が面倒だと雲って鉄道を布(し)く。それで永久満足が出來るものじゃない。さればと雲って人間だものどこまで積極的に我意を通す事が出來るものか。西洋の文明は積極的、進取的かも知れないがつまり不満足で一生をくらす人の作った文明さ。日本の文明は自分以外の狀態を変化させて満足を求めるのじゃない。西洋と大(おおい)に違うところは、根本的に周囲の境遇は動かすべからざるものと雲う一大仮定の下(もと)に発達しているのだ。親子の関係が面白くないと雲って歐洲人のようにこの関係を改良して落ちつきをとろうとするのではない。親子の関係は在來のままでとうてい動かす事が出來んものとして、その関係の下(もと)に安心を求むる手段を講ずるにある。夫婦君臣の間柄もその通り、武士町人の區別もその通り、自然その物を観(み)るのもその通り。――山があって隣國へ行かれなければ、山を崩すと雲う考を起す代りに隣國へ行かんでも困らないと雲う工夫をする。山を越さなくとも満足だと雲う心持ちを養成するのだ。それだから君見給え。禪家(ぜんけ)でも儒家(じゅか)でもきっと根本的にこの問題をつらまえる。いくら自分がえらくても世の中はとうてい意のごとくなるものではない、落日(らくじつ)を回(めぐ)らす事も、加茂川を逆(さか)に流す事も出來ない。ただ出來るものは自分の心だけだからね。心さえ自由にする修業をしたら、落雲館の生徒がいくら騒いでも平気なものではないか、今戸焼の狸でも構わんでおられそうなものだ。ぴん助なんか愚(ぐ)な事を雲ったらこの馬鹿野郎とすましておれば仔細(しさい)なかろう。何でも昔しの坊主は人に斬(き)り付けられた時電光影裏(でんこうえいり)に春風(しゅんぷう)を斬るとか、何とか灑落(しゃ)れた事を雲ったと雲う話だぜ。心の修業がつんで消極の極に達するとこんな霊活な作用が出來るのじゃないかしらん。僕なんか、そんなむずかしい事は分らないが、とにかく西洋人風の積極主義ばかりがいいと思うのは少々誤まっているようだ。現に君がいくら積極主義に働いたって、生徒が君をひやかしにくるのをどうする事も出來ないじゃないか。君の権力であの學校を閉鎖するか、または先方が警察に訴えるだけのわるい事をやれば格別だが、さもない以上は、どんなに積極的に出たったて勝てっこないよ。もし積極的に出るとすれば金の問題になる。多勢(たぜい)に無勢(ぶぜい)の問題になる。換言すると君が金持に頭を下げなければならんと雲う事になる。衆を恃(たの)む小供に恐れ入らなければならんと雲う事になる。君のような貧乏人でしかもたった一人で積極的に喧嘩をしようと雲うのがそもそも君の不平の種さ。どうだい分ったかい」

主人は分ったとも、分らないとも言わずに聞いていた。珍客が帰ったあとで書斎へ這入(はい)って書物も読まずに何か考えていた。

鈴木の藤(とう)さんは金と衆とに従えと主人に教えたのである。甘木先生は催眠術で神経を沈めろと助言(じょごん)したのである。最後の珍客は消極的の修養で安心を得ろと説法したのである。主人がいずれを択(えら)ぶかは主人の隨意である。ただこのままでは通されないに極(き)まっている。

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