正文 八 - 5

ある日の午後、吾輩は例のごとく椽側(えんがわ)へ出て午睡(ひるね)をして虎になった夢を見ていた。主人に鶏肉(けいにく)を持って來いと雲うと、主人がへえと恐る恐る鶏肉を持って出る。迷亭が來たから、迷亭に雁(がん)が食いたい、雁鍋(がんなべ)へ行って誂(あつ)らえて來いと雲うと、蕪(かぶ)の香(こう)の物(もの)と、塩煎餅(しおせんべい)といっしょに召し上がりますと雁の味が致しますと例のごとく茶羅(ちゃら)ッ鉾(ぽこ)を雲うから、大きな口をあいて、うーと唸(うな)って嚇(おどか)してやったら、迷亭は蒼(あお)くなって山下(やました)の雁鍋は廃業致しましたがいかが取り計(はから)いましょうかと雲った。それなら牛肉で勘弁するから早く西川へ行ってロースを一斤取って來い、早くせんと貴様から食い殺すぞと雲ったら、迷亭は尻を端折(はしょ)って馳(か)け出した。吾輩は急にからだが大きくなったので、椽側一杯に寢そべって、迷亭の帰るのを待ち受けていると、たちまち家中(うちじゅう)に響く大きな聲がしてせっかくの牛(ぎゅう)も食わぬ間(ま)に夢がさめて吾に帰った。すると今まで恐る恐る吾輩の前に平伏していたと思いのほかの主人が、いきなり後架(こうか)から飛び出して來て、吾輩の橫腹をいやと雲うほど蹴(け)たから、おやと思ううち、たちまち庭下駄をつっかけて木戸から廻って、落雲館の方へかけて行く。吾輩は虎から急に貓と収縮したのだから何となく極(きま)りが悪くもあり、おかしくもあったが、主人のこの権幕と橫腹を蹴られた痛さとで、虎の事はすぐ忘れてしまった。同時に主人がいよいよ出馬して敵と交戦するな面白いわいと、痛いのを我慢して、後(あと)を慕って裏口へ出た。同時に主人がぬすっとうと怒鳴る聲が聞える、見ると制帽をつけた十八九になる倔強(くっきょう)な奴が一人、四ツ目垣を向うへ乗り越えつつある。やあ遅かったと思ううち、彼(か)の制帽は馳け足の姿勢をとって根拠地の方へ韋駄天(いだてん)のごとく逃げて行く。主人はぬすっとうが大(おおい)に成功したので、またもぬすっとうと高く叫びながら追いかけて行く。しかしかの敵に追いつくためには主人の方で垣を越さなければならん。深入りをすれば主人自(みずか)らが泥棒になるはずである。前(ぜん)申す通り主人は立派なる逆上家である。こう勢(いきおい)に乗じてぬすっとうを追い懸ける以上は、夫子(ふうし)自身がぬすっとうに成っても追い懸けるつもりと見えて、引き返す気色(けしき)もなく垣の根元まで進んだ。今一歩で彼はぬすっとうの領分に入(はい)らなければならんと雲う間際(まぎわ)に、敵軍の中から、薄い髯(ひげ)を勢なく生(は)やした將官がのこのこと出馬して來た。両人(ふたり)は垣を境に何か談判している。聞いて見るとこんなつまらない議論である。

「あれは本校の生徒です」

「生徒たるべきものが、何で他(ひと)の邸內へ侵入するのですか」

「いやボールがつい飛んだものですから」

「なぜ斷って、取りに來ないのですか」

「これから善(よ)く注意します」

「そんなら、よろしい」

竜騰虎闘(りゅうとうことう)の壯観があるだろうと予期した交渉はかくのごとく散文的なる談判をもって無事に迅速に結了した。主人の壯(さか)んなるはただ意気込みだけである。いざとなると、いつでもこれでおしまいだ。あたかも吾輩が虎の夢から急に貓に返ったような観がある。吾輩の小事件と雲うのは即(すなわ)ちこれである。小事件を記述したあとには、順序として是非大事件を話さなければならん。

主人は座敷の障子を開いて腹這(はらばい)になって、何か思案している。恐らく敵に対して防禦策(ぼうぎょさく)を講じているのだろう。落雲館は授業中と見えて、運動場は存外靜かである。ただ校舎の一室で、倫理の講義をしているのが手に取るように聞える。朗々たる音聲でなかなかうまく述べ立てているのを聴くと、全く昨日(きのう)敵中から出馬して談判の衝(しょう)に當った將軍である。

「……で公徳と雲うものは大切な事で、あちらへ行って見ると、仏蘭西(フランス)でも獨逸(ドイツ)でも英吉利(イギリス)でも、どこへ行っても、この公徳の行われておらん國はない。またどんな下等な者でもこの公徳を重んぜぬ者はない。悲しいかな、我が日本に在(あ)っては、未(ま)だこの點において外國と拮抗(きっこう)する事が出來んのである。で公徳と申すと何か新しく外國から輸入して來たように考える諸君もあるかも知れんが、そう思うのは大(だい)なる誤りで、昔人(せきじん)も夫子(ふうし)の道一(みちいつ)以(もっ)て之(これ)を貫(つらぬ)く、忠恕(ちゅうじょ)のみ矣(い)と雲われた事がある。この恕(じょ)と申すのが取りも直さず公徳の出所(しゅっしょ)である。私も人間であるから時には大きな聲をして歌などうたって見たくなる事がある。しかし私が勉強している時に隣室のものなどが放歌するのを聴くと、どうしても書物の読めぬのが私の性分である。であるからして自分が唐詩選(とうしせん)でも高聲(こうせい)に吟じたら気分が晴々(せいせい)してよかろうと思う時ですら、もし自分のように迷惑がる人が隣家に住んでおって、知らず知らずその人の邪魔をするような事があってはすまんと思うて、そう雲う時はいつでも控(ひか)えるのである。こう雲う訳だから諸君もなるべく公徳を守って、いやしくも人の妨害になると思う事は決してやってはならんのである。……」

主人は耳を傾けて、この講話を謹聴していたが、ここに至ってにやりと笑った。ちょっとこのにやりの意味を説明する必要がある。皮肉家がこれをよんだらこのにやりの裏(うち)には冷評的分子が交っていると思うだろう。しかし主人は決して、そんな人の悪い男ではない。悪いと雲うよりそんなに智慧(ちえ)の発達した男ではない。主人はなぜ笑ったかと雲うと全く嬉しくって笑ったのである。倫理の教師たる者がかように痛切なる訓戒を與えるからはこの後(のち)は永久ダムダム弾の亂射を免(まぬ)がれるに相違ない。當分のうち頭も禿げずにすむ、逆上は一時に直らんでも時機さえくれば漸次(ぜんじ)回復するだろう、濡(ぬ)れ手拭(てぬぐい)を頂いて、炬燵(こたつ)にあたらなくとも、樹下石上を宿(やど)としなくとも大丈夫だろうと鑑定したから、にやにやと笑ったのである。借金は必ず返す者と二十世紀の今日(こんにち)にもやはり正直に考えるほどの主人がこの講話を真面目に聞くのは當然であろう。

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