正文 七 - 3

橫町を左へ折れると向うに高いとよ竹のようなものが屹立(きつりつ)して先から薄い煙を吐いている。これ即(すなわ)ち洗湯である。吾輩はそっと裏口から忍び込んだ。裏口から忍び込むのを卑怯(ひきょう)とか未練とか雲うが、あれは表からでなくては訪問する事が出來ぬものが嫉妬(しっと)半分に囃(はや)し立てる繰(く)り言(ごと)である。昔から利口な人は裏口から不意を襲う事にきまっている。紳士養成方(ほう)の第二巻第一章の五ページにそう出ているそうだ。その次のページには裏口は紳士の遺書にして自身徳を得るの門なりとあるくらいだ。吾輩は二十世紀の貓だからこのくらいの教育はある。あんまり軽蔑(けいべつ)してはいけない。さて忍び込んで見ると、左の方に松を割って八寸くらいにしたのが山のように積んであって、その隣りには石炭が岡のように盛ってある。なぜ松薪(まつまき)が山のようで、石炭が岡のようかと聞く人があるかも知れないが、別に意味も何もない、ただちょっと山と岡を使い分けただけである。人間も米を食ったり、鳥を食ったり、餚(さかな)を食ったり、獣(けもの)を食ったりいろいろの悪(あく)もの食いをしつくしたあげくついに石炭まで食うように墮落したのは不憫(ふびん)である。行き當りを見ると一間ほどの入口が明け放しになって、中を覗(のぞ)くとがんがらがんのがあんと物靜かである。その向側(むこうがわ)で何かしきりに人間の聲がする。いわゆる洗湯はこの聲の発する辺(へん)に相違ないと斷定したから、松薪と石炭の間に出來てる谷あいを通り抜けて左へ廻って、前進すると右手に硝子窓(ガラスまど)があって、そのそとに丸い小桶(こおけ)が三角形即(すなわ)ちピラミッドのごとく積みかさねてある。丸いものが三角に積まれるのは不本意千萬だろうと、ひそかに小桶諸君の意を諒(りょう)とした。小桶の南側は四五尺の間(あいだ)板が余って、あたかも吾輩を迎うるもののごとく見える。板の高さは地面を去る約一メートルだから飛び上がるには御誂(おあつら)えの上等である。よろしいと雲いながらひらりと身を躍(おど)らすといわゆる洗湯は鼻の先、眼の下、顔の前にぶらついている。天下に何が面白いと雲って、未(いま)だ食わざるものを食い、未だ見ざるものを見るほどの愉快はない。諸君もうちの主人のごとく一週三度くらい、この洗湯界に三十分乃至(ないし)四十分を暮すならいいが、もし吾輩のごとく風呂と雲うものを見た事がないなら、早く見るがいい。親の死目(しにめ)に逢(あ)わなくてもいいから、これだけは是非見物するがいい。世界広しといえどもこんな奇観(きかん)はまたとあるまい。

何が奇観だ?何が奇観だって吾輩はこれを口にするを憚(はば)かるほどの奇観だ。この硝子窓(ガラスまど)の中にうじゃうじゃ、があがあ騒いでいる人間はことごとく裸體である。台灣の生蕃(せいばん)である。二十世紀のアダムである。そもそも衣裝(いしょう)の歴史を繙(ひもと)けば――長い事だからこれはトイフェルスドレック君に譲って、繙くだけはやめてやるが、――人間は全く服裝で持ってるのだ。十八世紀の頃大英國バスの溫泉場においてボー·ナッシが厳重な規則を制定した時などは浴場內で男女共肩から足まで著物でかくしたくらいである。今を去る事六十年前(ぜん)これも英國の去る都で図案學校を設立した事がある。図案學校の事であるから、裸體畫、裸體像の模寫、模型を買い込んで、ここ、かしこに陳列したのはよかったが、いざ開校式を挙行する一段になって當局者を初め學校の職員が大困卻をした事がある。開校式をやるとすれば、市の淑女を招待しなければならん。ところが當時の貴婦人方の考によると人間は服裝の動物である。皮を著た猿の子分ではないと思っていた。人間として著物をつけないのは象の鼻なきがごとく、學校の生徒なきがごとく、兵隊の勇気なきがごとく全くその本體を失(しっ)している。いやしくも本體を失している以上は人間としては通用しない、獣類である。仮令(たとい)模寫模型にせよ獣類の人間と伍するのは貴女の品位を害する訳である。でありますから妾等(しょうら)は出席御斷わり申すと雲われた。そこで職員共は話せない連中だとは思ったが、何しろ女は東西両國を通じて一種の裝飾品である。米舂(こめつき)にもなれん志願兵にもなれないが、開校式には欠くべからざる化裝道具(けしょうどうぐ)である。と雲うところから仕方がない、呉服屋へ行って黒布(くろぬの)を三十五反八分七(はちぶんのしち)買って來て例の獣類の人間にことごとく著物をきせた。失禮があってはならんと念に念を入れて顔まで著物をきせた。かようにしてようやくの事滯(とどこお)りなく式をすましたと雲う話がある。そのくらい衣服は人間にとって大切なものである。近頃は裸體畫裸體畫と雲ってしきりに裸體を主張する先生もあるがあれはあやまっている。生れてから今日(こんにち)に至るまで一日も裸體になった事がない吾輩から見ると、どうしても間違っている。裸體は希臘(ギリシャ)、羅馬(ローマ)の遺風が文芸復興時代の淫靡(いんび)の風(ふう)に誘われてから流行(はや)りだしたもので、希臘人や、羅馬人は平常(ふだん)から裸體を見做(みな)れていたのだから、これをもって風教上の利害の関係があるなどとは毫(ごう)も思い及ばなかったのだろうが北歐は寒い所だ。日本でさえ裸で道中がなるものかと雲うくらいだから獨逸(ドイツ)や英吉利(イギリス)で裸になっておれば死んでしまう。死んでしまってはつまらないから著物をきる。みんなが著物をきれば人間は服裝の動物になる。一たび服裝の動物となった後(のち)に、突然裸體動物に出逢えば人間とは認めない、獣(けだもの)と思う。それだから歐洲人ことに北方の歐洲人は裸體畫、裸體像をもって獣として取り扱っていいのである。貓に劣る獣と認定していいのである。美しい?美しくても構わんから、美しい獣と見做(みな)せばいいのである。こう雲うと西洋婦人の禮服を見たかと雲うものもあるかも知れないが、貓の事だから西洋婦人の禮服を拝見した事はない。聞くところによると彼等は胸をあらわし、肩をあらわし、腕をあらわしてこれを禮服と稱しているそうだ。怪(け)しからん事だ。十四世紀頃までは彼等の出(い)で立(た)ちはしかく滑稽ではなかった、やはり普通の人間の著るものを著ておった。それがなぜこんな下等な軽術師(かるわざし)流に転化してきたかは面倒だから述べない。知る人ぞ知る、知らぬものは知らん顔をしておればよろしかろう。歴史はとにかく彼等はかかる異様な風態をして夜間だけは得々(とくとく)たるにも係わらず內心は少々人間らしいところもあると見えて、日が出ると、肩をすぼめる、胸をかくす、腕を包む、どこもかしこもことごとく見えなくしてしまうのみならず、足の爪一本でも人に見せるのを非常に恥辱と考えている。これで考えても彼等の禮服なるものは一種の頓珍漢的(とんちんかんてき)作用(さよう)によって、馬鹿と馬鹿の相談から成立したものだと雲う事が分る。それが口惜(くや)しければ日中(にっちゅう)でも肩と胸と腕を出していて見るがいい。裸體信者だってその通りだ。それほど裸體がいいものなら娘を裸體にして、ついでに自分も裸になって上野公園を散歩でもするがいい、できない?出來ないのではない、西洋人がやらないから、自分もやらないのだろう。現にこの不合理極まる禮服を著て威張って帝國ホテルなどへ出懸(でか)けるではないか。その因縁(いんねん)を尋ねると何にもない。ただ西洋人がきるから、著ると雲うまでの事だろう。西洋人は強いから無理でも馬鹿気ていても真似なければやり切れないのだろう。長いものには捲(ま)かれろ、強いものには折れろ、重いものには圧(お)されろと、そうれろ盡しでは気が利(き)かんではないか。気が利(き)かんでも仕方がないと雲うなら勘弁するから、あまり日本人をえらい者と思ってはいけない。學問といえどもその通りだがこれは服裝に関係がない事だから以下略とする。

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