正文 七 - 2

海水浴は追って実行する事にして、運動だけは取りあえずやる事に取り極(き)めた。どうも二十世紀の今日(こんにち)運動せんのはいかにも貧民のようで人聞きがわるい。運動をせんと、運動せんのではない。運動が出來んのである、運動をする時間がないのである、餘裕がないのだと鑑定される。昔は運動したものが折助(おりすけ)と笑われたごとく、今では運動をせぬ者が下等と見做(みな)されている。吾人の評価は時と場合に応じ吾輩の眼玉のごとく変化する。吾輩の眼玉はただ小さくなったり大きくなったりするばかりだが、人間の品隲(ひんしつ)とくると真逆(まっさ)かさまにひっくり返る。ひっくり返っても差(さ)し支(つか)えはない。物には両面がある、両端(りょうたん)がある。両端を叩(たた)いて黒白(こくびゃく)の変化を同一物の上に起こすところが人間の融通のきくところである。方寸を逆(さ)かさまにして見ると寸方となるところに愛嬌(あいきょう)がある。天(あま)の橋立(はしだて)を股倉(またぐら)から覗(のぞ)いて見るとまた格別な趣(おもむき)が出る。セクスピヤも千古萬古セクスピヤではつまらない。偶(たま)には股倉からハムレットを見て、君こりゃ駄目だよくらいに雲う者がないと、文界も進歩しないだろう。だから運動をわるく雲った連中が急に運動がしたくなって、女までがラケットを持って往來をあるき廻ったって一向(いっこう)不思議はない。ただ貓が運動するのを利(き)いた風だなどと笑いさえしなければよい。さて吾輩の運動はいかなる種類の運動かと不審を抱(いだ)く者があるかも知れんから一応説明しようと思う。御承知のごとく不幸にして機械を持つ事が出來ん。だからボールもバットも取り扱い方に困窮する。次には金がないから買う訳(わけ)に行かない。この二つの源因からして吾輩の選んだ運動は一文(いちもん)いらず器械なしと名づくべき種類に屬する者と思う。そんなら、のそのそ歩くか、あるいは鮪(まぐろ)の切身を啣(くわ)えて馳(か)け出す事と考えるかも知れんが、ただ四本の足を力學的に運動させて、地球の引力に順(したが)って、大地を橫行するのは、あまり単簡(たんかん)で興味がない。いくら運動と名がついても、主人の時々実行するような、読んで字のごとき運動はどうも運動の神聖を汚(け)がす者だろうと思う。勿論(もちろん)ただの運動でもある刺激の下(もと)にはやらんとは限らん。鰹節競爭(かつぶしきょうそう)、鮭探(しゃけさが)しなどは結構だがこれは肝心(かんじん)の対象物があっての上の事で、この刺激を取り去ると索然(さくぜん)として沒趣味なものになってしまう。懸賞的興奮剤がないとすれば何か芸のある運動がして見たい。吾輩はいろいろ考えた。台所の廂(ひさし)から家根(やね)に飛び上がる方、家根の天辺(てっぺん)にある梅花形(ばいかがた)の瓦(かわら)の上に四本足で立つ術、物干竿(ものほしざお)を渡る事――これはとうてい成功しない、竹がつるつる滑(す)べって爪が立たない。後(うし)ろから不意に小供に飛びつく事、――これはすこぶる興味のある運動の一(ひとつ)だが滅多(めった)にやるとひどい目に逢うから、高々(たかだか)月に三度くらいしか試みない。紙袋(かんぶくろ)を頭へかぶせらるる事――これは苦しいばかりではなはだ興味の乏(とぼ)しい方法である。ことに人間の相手がおらんと成功しないから駄目。次には書物の表紙を爪で引き掻(か)く事、――これは主人に見付かると必ずどやされる危険があるのみならず、割合に手先の器用ばかりで総身の筋肉が働かない。これらは吾輩のいわゆる舊式運動なる者である。新式のうちにはなかなか興味の深いのがある。第一に蟷螂狩(とうろうが)り。――蟷螂狩りは鼠狩(ねずみが)りほどの大運動でない代りにそれほどの危険がない。夏の半(なかば)から秋の始めへかけてやる遊戱としてはもっとも上乗のものだ。その方法を雲うとまず庭へ出て、一匹の蟷螂(かまきり)をさがし出す。時候がいいと一匹や二匹見付け出すのは雑作(ぞうさ)もない。さて見付け出した蟷螂君の傍(そば)へはっと風を切って馳(か)けて行く。するとすわこそと雲う身構(みがまえ)をして鎌首をふり上げる。蟷螂でもなかなか健気(けなげ)なもので、相手の力量を知らんうちは抵抗するつもりでいるから面白い。振り上げた鎌首を右の前足でちょっと參る。振り上げた首は軟かいからぐにゃり橫へ曲る。この時の蟷螂君の表情がすこぶる興味を添える。おやと雲う思い入れが充分ある。ところを一足(いっそく)飛びに君(きみ)の後(うし)ろへ廻って今度は背面から君の羽根を軽(かろ)く引き掻(か)く。あの羽根は平生大事に畳(たた)んであるが、引き掻き方が烈(はげ)しいと、ぱっと亂れて中から吉野紙のような薄色の下著があらわれる。君は夏でも御苦労千萬に二枚重ねで乙(おつ)に極(き)まっている。この時君の長い首は必ず後ろに向き直る。ある時は向ってくるが、大概の場合には首だけぬっと立てて立っている。こっちから手出しをするのを待ち構えて見える。先方がいつまでもこの態度でいては運動にならんから、あまり長くなるとまたちょいと一本參る。これだけ參ると眼識のある蟷螂なら必ず逃げ出す。それを我無灑落(がむしゃら)に向ってくるのはよほど無教育な野蠻的蟷螂である。もし相手がこの野蠻な振舞をやると、向って來たところを覘(ねら)いすまして、いやと雲うほど張り付けてやる。大概は二三尺飛ばされる者である。しかし敵がおとなしく背面に前進すると、こっちは気の毒だから庭の立木を二三度飛鳥のごとく廻ってくる。蟷螂君(かまきりくん)はまだ五六寸しか逃げ延びておらん。もう吾輩の力量を知ったから手向いをする勇気はない。ただ右往左往へ逃げ惑(まど)うのみである。しかし吾輩も右往左往へ追っかけるから、君はしまいには苦しがって羽根を振(ふる)って一大活躍を試みる事がある。元來蟷螂の羽根は彼の首と調和して、すこぶる細長く出來上がったものだが、聞いて見ると全く裝飾用だそうで、人間の英語、仏語、獨逸語(ドイツご)のごとく毫(ごう)も実用にはならん。だから無用の長物を利用して一大活躍を試みたところが吾輩に対してあまり功能のありよう訳がない。名前は活躍だが事実は地面の上を引きずってあるくと雲うに過ぎん。こうなると少々気の毒な感はあるが運動のためだから仕方がない。御免蒙(ごめんこうむ)ってたちまち前面へ馳(か)け抜ける。君は惰性で急廻転が出來ないからやはりやむを得ず前進してくる。その鼻をなぐりつける。この時蟷螂君は必ず羽根を広げたまま仆(たお)れる。その上をうんと前足で抑(おさ)えて少しく休息する。それからまた放す。放しておいてまた抑える。七擒七縦(しちきんしちしょう)孔明(こうめい)の軍略で攻めつける。約三十分この順序を繰り返して、身動きも出來なくなったところを見すましてちょっと口へ啣(くわ)えて振って見る。それからまた吐き出す。今度は地面の上へ寢たぎり動かないから、こっちの手で突っ付いて、その勢で飛び上がるところをまた抑えつける。これもいやになってから、最後の手段としてむしゃむしゃ食ってしまう。ついでだから蟷螂を食った事のない人に話しておくが、蟷螂はあまり旨(うま)い物ではない。そうして滋養分も存外少ないようである。蟷螂狩(とうろうが)りに次いで蟬取(せみと)りと雲う運動をやる。単に蟬と雲ったところが同じ物ばかりではない。人間にも油野郎(あぶらやろう)、みんみん野郎、おしいつくつく野郎があるごとく、蟬にも油蟬、みんみん、おしいつくつくがある。油蟬はしつこくて行(い)かん。みんみんは橫風(おうふう)で困る。ただ取って面白いのはおしいつくつくである。これは夏の末にならないと出て來ない。八(や)つ口(くち)の綻(ほころ)びから秋風(あきかぜ)が斷わりなしに膚(はだ)を撫(な)でてはっくしょ風邪(かぜ)を引いたと雲う頃熾(さかん)に尾を掉(ふ)り立ててなく。善(よ)く鳴く奴で、吾輩から見ると鳴くのと貓にとられるよりほかに天職がないと思われるくらいだ。秋の初はこいつを取る。これを稱して蟬取り運動と雲う。ちょっと諸君に話しておくがいやしくも蟬と名のつく以上は、地面の上に転(ころ)がってはおらん。地面の上に落ちているものには必ず蟻(あり)がついている。吾輩の取るのはこの蟻の領分に寢転んでいる奴ではない。高い木の枝にとまっ

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