ここへ東風君さえくれば、主人の家(うち)へ出入(でいり)する変人はことごとく網羅し盡(つく)したとまで行かずとも、少なくとも吾輩の無聊(ぶりょう)を慰むるに足るほどの頭數(あたまかず)は御揃(おそろい)になったと雲わねばならぬ。これで不足を雲っては勿體(もったい)ない。運悪るくほかの家へ飼われたが最後、生涯人間中にかかる先生方が一人でもあろうとさえ気が付かずに死んでしまうかも知れない。幸(さいわい)にして苦沙彌先生門下の貓児(びょうじ)となって朝夕(ちょうせき)虎皮(こひ)の前に侍(はん)べるので先生は無論の事迷亭、寒月乃至(ないし)東風などと雲う広い東京にさえあまり例のない一騎當千の豪傑連の挙止動作を寢ながら拝見するのは吾輩にとって千載一遇の光栄である。御蔭様でこの暑いのに毛袋でつつまれていると雲う難儀も忘れて、面白く半日を消光する事が出來るのは感謝の至りである。どうせこれだけ集まれば只事(ただごと)ではすまない。何か持ち上がるだろうと襖(ふすま)の陰から謹(つつし)んで拝見する。
「どうもご無沙汰を致しました。しばらく」と御辭儀をする東風君の顔を見ると、先日のごとくやはり奇麗に光っている。頭だけで評すると何か緞帳役者(どんちょうやくしゃ)のようにも見えるが、白い小倉(こくら)の袴(はかま)のゴワゴワするのを御苦労にも鹿爪(しかつめ)らしく穿(は)いているところは榊原健吉(さかきばらけんきち)の內弟子としか思えない。従って東風君の身體で普通の人間らしいところは肩から腰までの間だけである。「いや暑いのに、よく御出掛だね。さあずっと、こっちへ通りたまえ」と迷亭先生は自分の家(うち)らしい挨拶をする。「先生には大分(だいぶ)久しく御目にかかりません」「そうさ、たしかこの春の朗読會ぎりだったね。朗読會と雲えば近頃はやはり御盛(おさかん)かね。その後(ご)御宮(おみや)にゃなりませんか。あれは旨(うま)かったよ。僕は大(おおい)に拍手したぜ、君気が付いてたかい」「ええ御蔭で大きに勇気が出まして、とうとうしまいまで漕(こ)ぎつけました」「今度はいつ御催しがありますか」と主人が口を出す。「七八両月(ふたつき)は休んで九月には何か賑(にぎ)やかにやりたいと思っております。何か面白い趣向はございますまいか」「さよう」と主人が気のない返事をする。「東風君僕の創作を一つやらないか」と今度は寒月君が相手になる。「君の創作なら面白いものだろうが、一體何かね」「腳本さ」と寒月君がなるべく押しを強く出ると、案のごとく、三人はちょっと毒気をぬかれて、申し合せたように本人の顔を見る。「腳本はえらい。喜劇かい悲劇かい」と東風君が歩を進めると、寒月先生なお澄し返って「なに喜劇でも悲劇でもないさ。近頃は舊劇とか新劇とか大部(だいぶ)やかましいから、僕も一つ新機軸を出して俳劇(はいげき)と雲うのを作って見たのさ」「俳劇たどんなものだい」「俳句趣味の劇と雲うのを詰めて俳劇の二字にしたのさ」と雲うと主人も迷亭も多少煙(けむ)に捲(ま)かれて控(ひか)えている。「それでその趣向と雲うのは?」と聞き出したのはやはり東風君である。「根が俳句趣味からくるのだから、あまり長たらしくって、毒悪なのはよくないと思って一幕物にしておいた」「なるほど」「まず道具立てから話すが、これも極(ごく)簡単なのがいい。舞台の真中へ大きな柳を一本植え付けてね。それからその柳の幹から一本の枝を右の方へヌッと出させて、その枝へ烏(からす)を一羽とまらせる」「烏がじっとしていればいいが」と主人が獨(ひと)り言(ごと)のように心配した。「何わけは有りません、烏の足を糸で枝へ縛(しば)り付けておくんです。でその下へ行水盥(ぎょうずいだらい)を出しましてね。美人が橫向きになって手拭を使っているんです」「そいつは少しデカダンだね。第一誰がその女になるんだい」と迷亭が聞く。「何これもすぐ出來ます。美術學校のモデルを雇ってくるんです」「そりゃ警視庁がやかましく雲いそうだな」と主人はまた心配している。「だって興行さえしなければ構わんじゃありませんか。そんな事をとやかく雲った日にゃ學校で裸體畫の寫生なんざ出來っこありません」「しかしあれは稽古のためだから、ただ見ているのとは少し違うよ」「先生方がそんな事を雲った日には日本もまだ駄目です。絵畫だって、演劇だって、おんなじ芸術です」と寒月君大いに気焔(きえん)を吹く。「まあ議論はいいが、それからどうするのだい」と東風君、ことによると、やる了見(りょうけん)と見えて筋を聞きたがる。「ところへ花道から俳人高浜虛子(たかはまきょし)がステッキを持って、白い燈心(とうしん)入りの帽子を被(かぶ)って、透綾(すきや)の羽織に、薩摩飛白(さつまがすり)の尻端折(しりっぱしょ)りの半靴と雲うこしらえで出てくる。著付けは陸軍の御用達(ごようたし)見たようだけれども俳人だからなるべく悠々(ゆうゆう)として腹の中では句案に余念のない體(てい)であるかなくっちゃいけない。それで虛子が花道を行き切っていよいよ本舞台に懸った時、ふと句案の眼をあげて前面を見ると、大きな柳があって、柳の影で白い女が湯を浴びている、はっと思って上を見ると長い柳の枝に烏が一羽とまって女の行水を見下ろしている。そこで虛子先生大(おおい)に俳味に感動したと雲う思い入れが五十秒ばかりあって、行水の女に惚れる烏かなと大きな聲で一句朗吟するのを合図に、拍子木(ひょうしぎ)を入れて幕を引く。――どうだろう、こう雲う趣向は。御気に入りませんかね。君御宮(おみや)になるより虛子になる方がよほどいいぜ」東風君は何だか物足らぬと雲う顔付で「あんまり、あっけないようだ。もう少し人情を加味した事件が欲しいようだ」と真面目に答える。今まで比較的おとなしくしていた迷亭はそういつまでもだまっているような男ではない。「たったそれだけで俳劇はすさまじいね。上田敏(うえだびん)君の説によると俳味とか滑稽とか雲うものは消極的で亡國の音(いん)だそうだが、敏君だけあってうまい事を雲ったよ。そんなつまらない物をやって見給え。それこそ上田君から笑われるばかりだ。第一劇だか茶番だか何だかあまり消極的で分らないじゃないか。失禮だが寒月君はやはり実験室で珠(たま)を磨いてる方がいい。俳劇なんぞ百作ったって二百作ったって、亡國の音(いん)じゃ駄目だ」寒月君は少々憤(むっ)として、「そんなに消極的でしょうか。私はなかなか積極的なつもりなんですが」どっちでも構わん事を弁解しかける。「虛子がですね。虛子先生が女に惚れる烏かなと烏を捕(とら)えて女に惚れさしたところが大(おおい)に積極的だろうと思います」「こりゃ新説だね。是非御講釈を伺がいましょう」「理學士として考えて見ると烏が女に惚れるなどと雲うのは不合理でしょう」「ごもっとも」「その不合理な事を無雑作(むぞうさ)に言い放って少しも無理に聞えません」「そうかしら」と主人が疑った調子で割り込んだが寒月は一向頓著しない。「なぜ無理に聞えないかと雲うと、これは心理的に説明するとよく分ります。実を雲うと惚れるとか惚れないとか雲うのは俳人その人に存する感情で烏とは沒交渉の沙汰であります。しかるところあの烏は惚れてるなと感じるのは、つまり烏がどうのこうのと雲う訳じゃない、必竟(ひっきょう)自分が惚れているんでさあ。虛子自身が美しい女の行水(ぎょうずい)しているところを見てはっと思う途端にずっと惚れ込んだに相違ないです。さあ自分が惚れた眼で烏が枝の上で動きもしないで下を見つめているのを見たものだから、ははあ、あいつも俺と同じく參ってるなと癇違(かんちが)いをしたのです。癇違いには相違ないですがそこが文學的でかつ積極的なところなんです。自分だけ感じた事を、斷りもなく烏の上に拡張して知らん顔をしてすましているところなんぞは、よほど積極主義じゃありませんか。どうです先生」「なるほど御名論だね、虛子に聞かしたら驚くに違いない。説明だけは積極だが、実際あの劇をやられた日には、見物人はたしかに消極になるよ。ねえ東風君」「へえどうも消極過ぎるように思います」と真面目な顔をして答えた。