正文 六 - 2

「おやいらしゃいまし」と雲ったが少々狼狽(ろうばい)の気味で「ちっとも存じませんでした」と鼻の頭へ汗をかいたまま御辭儀をする。「いえ、今來たばかりなんですよ。今風呂場で御三(おさん)に水を掛けて貰ってね。ようやく生き帰ったところで――どうも暑いじゃありませんか」「この両三日(りょうさんち)は、ただじっとしておりましても汗が出るくらいで、大変御暑うございます。――でも御変りもございませんで」と細君は依然として鼻の汗をとらない。「ええありがとう。なに暑いくらいでそんなに変りゃしませんや。しかしこの暑さは別物ですよ。どうも體がだるくってね」「私(わたく)しなども、ついに晝寢などを致した事がないんでございますが、こう暑いとつい――」「やりますかね。好いですよ。晝寢られて、夜寢られりゃ、こんな結構な事はないでさあ」とあいかわらず呑気(のんき)な事を並べて見たがそれだけでは不足と見えて「私(わたし)なんざ、寢たくない、質(たち)でね。苦沙彌君などのように來るたんびに寢ている人を見ると羨(うらやま)しいですよ。もっとも胃弱にこの暑さは答えるからね。丈夫な人でも今日なんかは首を肩の上に載(の)せてるのが退儀でさあ。さればと雲って載ってる以上はもぎとる訳にも行かずね」と迷亭君いつになく首の処置に窮している。「奧さんなんざ首の上へまだ載っけておくものがあるんだから、坐っちゃいられないはずだ。髷(まげ)の重みだけでも橫になりたくなりますよ」と雲うと細君は今まで寢ていたのが髷の恰好(かっこう)から露見したと思って「ホホホ口の悪い」と雲いながら頭をいじって見る。

迷亭はそんな事には頓著なく「奧さん、昨日(きのう)はね、屋根の上で玉子のフライをして見ましたよ」と妙な事を雲う。「フライをどうなさったんでございます」「屋根の瓦があまり見事に焼けていましたから、ただ置くのも勿體ないと思ってね。バタを溶かして玉子を落したんでさあ」「あらまあ」「ところがやっぱり天日(てんぴ)は思うように行きませんや。なかなか半熟にならないから、下へおりて新聞を読んでいると客が來たもんだからつい忘れてしまって、今朝になって急に思い出して、もう大丈夫だろうと上って見たらね」「どうなっておりました」「半熟どころか、すっかり流れてしまいました」「おやおや」と細君は八の字を寄せながら感嘆した。

「しかし土用中あんなに涼しくって、今頃から暑くなるのは不思議ですね」「ほんとでございますよ。せんだってじゅうは単衣(ひとえ)では寒いくらいでございましたのに、一昨日(おととい)から急に暑くなりましてね」「蟹(かに)なら橫に這(は)うところだが今年の気候はあとびさりをするんですよ。倒行(とうこう)して逆施(げきし)すまた可ならずやと雲うような事を言っているかも知れない」「なんでござんす、それは」「いえ、何でもないのです。どうもこの気候の逆戻りをするところはまるでハーキュリスの牛ですよ」と図に乗っていよいよ変ちきりんな事を言うと、果せるかな細君は分らない。しかし最前の倒行して逆施すで少々懲(こ)りているから、今度はただ「へえー」と雲ったのみで問い返さなかった。これを問い返されないと迷亭はせっかく持ち出した甲斐(かい)がない。「奧さん、ハーキュリスの牛を御存じですか」「そんな牛は存じませんわ」「御存じないですか、ちょっと講釈をしましょうか」と雲うと細君もそれには及びませんとも言い兼ねたものだから「ええ」と雲った。「昔(むか)しハーキュリスが牛を引っ張って來たんです」「そのハーキュリスと雲うのは牛飼ででもござんすか」「牛飼じゃありませんよ。牛飼やいろはの亭主じゃありません。その節は希臘(ギリシャ)にまだ牛肉屋が一軒もない時分の事ですからね」「あら希臘のお話しなの?そんなら、そうおっしゃればいいのに」と細君は希臘と雲う國名だけは心得ている。「だってハーキュリスじゃありませんか」「ハーキュリスなら希臘なんですか」「ええハーキュリスは希臘の英雄でさあ」「どうりで、知らないと思いました。それでその男がどうしたんで――」「その男がね奧さん見たように眠くなってぐうぐう寢ている――」「あらいやだ」「寢ている間(ま)に、ヴァルカンの子が來ましてね」「ヴァルカンて何です」「ヴァルカンは鍛冶屋(かじや)ですよ。この鍛冶屋のせがれがその牛を盜んだんでさあ。ところがね。牛の尻尾(しっぽ)を持ってぐいぐい引いて行ったもんだからハーキュリスが眼を覚(さ)まして牛やーい牛やーいと尋ねてあるいても分らないんです。分らないはずでさあ。牛の足跡をつけたって前の方へあるかして連れて行ったんじゃありませんもの、後(うし)ろへ後(うし)ろへと引きずって行ったんですからね。鍛冶屋のせがれにしては大出來ですよ」と迷亭先生はすでに天気の話は忘れている。

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