主人の勝手には引窓がない。座敷なら欄間(らんま)と雲うような所が幅一尺ほど切り抜かれて夏冬吹き通しに引窓の代理を勤めている。惜し気もなく散る彼岸桜(ひがんざくら)を誘うて、颯(さっ)と吹き込む風に驚ろいて眼を覚(さ)ますと、朧月(おぼろづき)さえいつの間(ま)に差してか、竈(へっつい)の影は斜めに揚板(あげいた)の上にかかる。寢過ごしはせぬかと二三度耳を振って家內の容子(ようす)を窺(うかが)うと、しんとして昨夜のごとく柱時計の音のみ聞える。もう鼠の出る時分だ。どこから出るだろう。
戸棚の中でことことと音がしだす。小皿の縁(ふち)を足で抑えて、中をあらしているらしい。ここから出るわいと穴の橫へすくんで待っている。なかなか出て來る景色(けしき)はない。皿の音はやがてやんだが今度はどんぶりか何かに掛ったらしい、重い音が時々ごとごととする。しかも戸を隔ててすぐ向う側でやっている、吾輩の鼻づらと距離にしたら三寸も離れておらん。時々はちょろちょろと穴の口まで足音が近寄るが、また遠のいて一匹も顔を出すものはない。戸一枚向うに現在敵が暴行を逞(たくま)しくしているのに、吾輩はじっと穴の出口で待っておらねばならん隨分気の長い話だ。鼠は旅順椀(りょじゅんわん)の中で盛に舞踏會を催うしている。せめて吾輩の這入(はい)れるだけ御三がこの戸を開けておけば善いのに、気の利かぬ山出しだ。
今度はへっついの影で吾輩の鮑貝(あわびがい)がことりと鳴る。敵はこの方面へも來たなと、そーっと忍び足で近寄ると手桶(ておけ)の間から尻尾(しっぽ)がちらと見えたぎり流しの下へ隠れてしまった。しばらくすると風呂場でうがい茶碗が金盥(かなだらい)にかちりと當る。今度は後方(うしろ)だと振りむく途端に、五寸近くある大(おおき)な奴がひらりと歯磨の袋を落して椽(えん)の下へ馳(か)け込む。逃がすものかと続いて飛び下りたらもう影も姿も見えぬ。鼠を捕(と)るのは思ったよりむずかしい者である。吾輩は先天的鼠を捕る能力がないのか知らん。
吾輩が風呂場へ廻ると、敵は戸棚から馳け出し、戸棚を警戒すると流しから飛び上り、台所の真中に頑張(がんば)っていると三方面共少々ずつ騒ぎ立てる。小癪(こしゃく)と雲おうか、卑怯(ひきょう)と雲おうかとうてい彼等は君子の敵でない。吾輩は十五六回はあちら、こちらと気を疲らし心(しん)を労(つか)らして奔走努力して見たがついに一度も成功しない。殘念ではあるがかかる小人(しょうじん)を敵にしてはいかなる東郷大將も施(ほど)こすべき策がない。始めは勇気もあり敵愾心(てきがいしん)もあり悲壯と雲う崇高な美感さえあったがついには面倒と馬鹿気ているのと眠いのと疲れたので台所の真中へ坐ったなり動かない事になった。しかし動かんでも八方睨(はっぽうにら)みを極(き)め込んでいれば敵は小人だから大した事は出來んのである。目ざす敵と思った奴が、存外けちな野郎だと、戦爭が名譽だと雲う感じが消えて悪(に)くいと雲う念だけ殘る。悪(に)くいと雲う念を通り過すと張り合が抜けてぼーとする。ぼーとしたあとは勝手にしろ、どうせ気の利(き)いた事は出來ないのだからと軽蔑(けいべつ)の極(きょく)眠(ねむ)たくなる。吾輩は以上の徑路をたどって、ついに眠くなった。吾輩は眠る。休養は敵中に在(あ)っても必要である。
橫向に庇(ひさし)を向いて開いた引窓から、また花吹雪(はなふぶき)を一塊(ひとかたま)りなげ込んで、烈しき風の吾を遶(めぐ)ると思えば、戸棚の口から弾丸のごとく飛び出した者が、避くる間(ま)もあらばこそ、風を切って吾輩の左の耳へ喰いつく。これに続く黒い影は後(うし)ろに廻るかと思う間もなく吾輩の尻尾(しっぽ)へぶら下がる。瞬(またた)く間の出來事である。吾輩は何の目的もなく器械的に跳上(はねあが)る。満身の力を毛穴に込めてこの怪物を振り落とそうとする。耳に喰い下がったのは中心を失ってだらりと吾が橫顔に懸る。護謨管(ゴムかん)のごとき柔かき尻尾の先が思い掛なく吾輩の口に這入る。屈竟(くっきょう)の手懸(てがか)りに、砕(くだ)けよとばかり尾を啣(くわ)えながら左右にふると、尾のみは前歯の間に殘って胴體は古新聞で張った壁に當って、揚板の上に跳(は)ね返る。起き上がるところを隙間(すきま)なく乗(の)し掛(かか)れば、毬(まり)を蹴(け)たるごとく、吾輩の鼻づらを掠(かす)めて釣り段の縁(ふち)に足を縮めて立つ。彼は棚の上から吾輩を見おろす、吾輩は板の間から彼を見上ぐる。距離は五尺。その中に月の光りが、大幅(おおはば)の帯を空(くう)に張るごとく橫に差し込む。吾輩は前足に力を込めて、やっとばかり棚の上に飛び上がろうとした。前足だけは首尾よく棚の縁(ふち)にかかったが後足(あとあし)は宙にもがいている。尻尾には最前の黒いものが、死ぬとも離るまじき勢で喰い下っている。吾輩は危(あや)うい。前足を懸(か)け易(か)えて足懸(あしがか)りを深くしようとする。懸け易える度に尻尾の重みで淺くなる。二三分(にさんぶ)滑れば落ちねばならぬ。吾輩はいよいよ危うい。棚板を爪で掻(か)きむしる音ががりがりと聞える。これではならぬと左の前足を抜き易える拍子に、爪を見事に懸け損じたので吾輩は右の爪一本で棚からぶら下った。自分と尻尾に喰いつくものの重みで吾輩のからだがぎりぎりと廻わる。この時まで身動きもせずに覘(ねら)いをつけていた棚の上の怪物は、ここぞと吾輩の額を目懸けて棚の上から石を投ぐるがごとく飛び下りる。吾輩の爪は一縷(いちる)のかかりを失う。三つの塊(かた)まりが一つとなって月の光を竪(たて)に切って下へ落ちる。次の段に乗せてあった摺鉢(すりばち)と、摺鉢の中の小桶(こおけ)とジャムの空缶(あきかん)が同じく一塊(ひとかたまり)となって、下にある火消壺を誘って、半分は水甕(みずがめ)の中、半分は板の間の上へ転がり出す。すべてが深夜にただならぬ物音を立てて死物狂いの吾輩の魂をさえ寒からしめた。
「泥棒!」と主人は胴間聲(どうまごえ)を張り上げて寢室から飛び出して來る。見ると片手にはランプを提(さ)げ、片手にはステッキを持って、寢ぼけ眼(まなこ)よりは身分相応の炯々(けいけい)たる光を放っている。吾輩は鮑貝(あわびがい)の傍(そば)におとなしくして蹲踞(うずくま)る。二疋の怪物は戸棚の中へ姿をかくす。主人は手持無沙汰に「何だ誰だ、大きな音をさせたのは」と怒気を帯びて相手もいないのに聞いている。月が西に傾いたので、白い光りの一帯は半切(はんきれ)ほどに細くなった。