正文 五 - 6

「何ですって」

「オタンチン·パレオロガスだよ」

「何ですそのオタンチン·パレオロガスって雲うのは」

「何でもいい。それからあとは――俺の著物は一向(いっこう)出て來んじゃないか」

「あとは何でも宜(よ)うござんす。オタンチン·パレオロガスの意味を聞かして頂戴(ちょうだい)」

「意味も何(な)にもあるもんか」

「教えて下すってもいいじゃありませんか、あなたはよっぽど私を馬鹿にしていらっしゃるのね。きっと人が英語を知らないと思って悪口をおっしゃったんだよ」

「愚(ぐ)な事を言わんで、早くあとを雲うが好い。早く告訴をせんと品物が返らんぞ」

「どうせ今から告訴をしたって間に合いやしません。それよりか、オタンチン·パレオロガスを教えて頂戴」

「うるさい女だな、意味も何にも無いと雲うに」

「そんなら、品物の方もあとはありません」

「頑愚(がんぐ)だな。それでは勝手にするがいい。俺はもう盜難告訴を書いてやらんから」

「私も品數(しなかず)を教えて上げません。告訴はあなたが御自分でなさるんですから、私は書いていただかないでも困りません」

「それじゃ廃(よ)そう」と主人は例のごとくふいと立って書斎へ這入(はい)る。細君は茶の間へ引き下がって針箱の前へ坐る。両人(ふたり)共十分間ばかりは何にもせずに黙って障子を睨(にら)め付けている。

ところへ威勢よく玄関をあけて、山の芋の寄贈者多々良三平(たたらさんぺい)君が上(あが)ってくる。多々良三平君はもとこの家(や)の書生であったが今では法科大學を卒業してある會社の鉱山部に雇われている。これも実業家の芽生(めばえ)で、鈴木藤十郎君の後進生である。三平君は以前の関係から時々舊先生の草廬(そうろ)を訪問して日曜などには一日遊んで帰るくらい、この家族とは遠慮のない間柄である。

「奧さん。よか天気でござります」と唐津訛(からつなま)りか何かで細君の前にズボンのまま立て膝をつく。

「おや多々良さん」

「先生はどこぞ出なすったか」

「いいえ書斎にいます」

「奧さん、先生のごと勉強しなさると毒ですばい。たまの日曜だもの、あなた」

「わたしに言っても駄目だから、あなたが先生にそうおっしゃい」

「そればってんが……」と言い掛けた三平君は座敷中を見廻わして「今日は御嬢さんも見えんな」と半分妻君に聞いているや否や次の間(ま)からとん子とすん子が馳け出して來る。

「多々良さん、今日は御壽司(おすし)を持って來て?」と姉のとん子は先日の約束を覚えていて、三平君の顔を見るや否や催促する。多々良君は頭を掻(か)きながら

「よう覚えているのう、この次はきっと持って來ます。今日は忘れた」と白狀する。

「いやーだ」と姉が雲うと妹もすぐ真似をして「いやーだ」とつける。細君はようやく御機嫌が直って少々笑顔になる。

「壽司は持って來んが、山の芋は上げたろう。御嬢さん喰べなさったか」

「山の芋ってなあに?」と姉がきくと妹が今度もまた真似をして「山の芋ってなあに?」と三平君に尋ねる。

「まだ食いなさらんか、早く御母(おか)あさんに煮て御貰い。唐津(からつ)の山の芋は東京のとは違ってうまかあ」と三平君が國自慢をすると、細君はようやく気が付いて

「多々良さんせんだっては御親切に沢山ありがとう」

「どうです、喰べて見なすったか、折れんように箱を誂(あつ)らえて堅くつめて來たから、長いままでありましたろう」

「ところがせっかく下すった山の芋を夕(ゆう)べ泥棒に取られてしまって」

「ぬす盜(と)が?馬鹿な奴ですなあ。そげん山の芋の好きな男がおりますか?」と三平君大(おおい)に感心している。

「御母(おか)あさま、夕べ泥棒が這入(はい)ったの?」と姉が尋ねる。

「ええ」と細君は軽(かろ)く答える。

「泥棒が這入って――そうして――泥棒が這入って――どんな顔をして這入ったの?」と今度は妹が聞く。この奇問には細君も何と答えてよいか分らんので

「恐(こわ)い顔をして這入りました」と返事をして多々良君の方を見る。

「恐い顔って多々良さん見たような顔なの」と姉が気の毒そうにもなく、押し返して聞く。

「何ですね。そんな失禮な事を」

「ハハハハ私(わたし)の顔はそんなに恐いですか。困ったな」と頭を掻(か)く。多々良君の頭の後部には直徑一寸ばかりの禿(はげ)がある。一カ月前から出來だして醫者に見て貰ったが、まだ容易に癒(なお)りそうもない。この禿を第一番に見付けたのは姉のとん子である。

「あら多々良さんの頭は御母(おかあ)さまのように光(ひ)かってよ」

「だまっていらっしゃいと雲うのに」

「御母あさま夕べの泥棒の頭も光かってて」とこれは妹の質問である。細君と多々良君とは思わず吹き出したが、あまり煩(わずら)わしくて話も何も出來ぬので「さあさあ御前さん達は少し御庭へ出て御遊びなさい。今に御母あさまが好い御菓子を上げるから」と細君はようやく子供を追いやって

「多々良さんの頭はどうしたの」と真面目に聞いて見る。

「蟲が食いました。なかなか癒りません。奧さんも有んなさるか」

「やだわ、蟲が食うなんて、そりゃ髷(まげ)で釣るところは女だから少しは禿げますさ」

「禿はみんなバクテリヤですばい」

「わたしのはバクテリヤじゃありません」

「そりゃ奧さん意地張りたい」

「何でもバクテリヤじゃありません。しかし英語で禿の事を何とか雲うでしょう」

「禿はボールドとか雲います」

「いいえ、それじゃないの、もっと長い名があるでしょう」

「先生に聞いたら、すぐわかりましょう」

「先生はどうしても教えて下さらないから、あなたに聞くんです」

「私(わたし)はボールドより知りませんが。長かって、どげんですか」

「オタンチン·パレオロガスと雲うんです。オタンチンと雲うのが禿と雲う字で、パレオロガスが頭なんでしょう」

「そうかも知れませんたい。今に先生の書斎へ行ってウェブスターを引いて調べて上げましょう。しかし先生もよほど変っていなさいますな。この天気の好いのに、うちにじっとして――奧さん、あれじゃ胃病は癒りませんな。ちと上野へでも花見に出掛けなさるごと勧めなさい」

「あなたが連れ出して下さい。先生は女の雲う事は決して聞かない人ですから」

「この頃でもジャムを舐(な)めなさるか」

「ええ相変らずです」

「せんだって、先生こぼしていなさいました。どうも妻(さい)が俺のジャムの舐め方が烈しいと雲って困るが、俺はそんなに舐めるつもりはない。何か勘定違いだろうと雲いなさるから、そりゃ御嬢さんや奧さんがいっしょに舐めなさるに違ない――」

「いやな多々良さんだ、何だってそんな事を雲うんです」

「しかし奧さんだって舐めそうな顔をしていなさるばい」

「顔でそんな事がどうして分ります」

「分らんばってんが――それじゃ奧さん少しも舐めなさらんか」

「そりゃ少しは舐めますさ。舐めたって好いじゃありませんか。うちのものだもの」

「ハハハハそうだろうと思った――しかし本(ほん)の事(こと)、泥棒は飛んだ災難でしたな。山の芋ばかり持って行(い)たのですか」

「山の芋ばかりなら困りゃしませんが、不斷著をみんな取って行きました」

「早速困りますか。また借金をしなければならんですか。この貓が犬ならよかったに――惜しい事をしたなあ。奧さん犬の大(ふと)か奴(やつ)を是非一丁飼いなさい。――貓は駄目ですばい、飯を食うばかりで――ちっとは鼠でも捕(と)りますか」

「一匹もとった事はあ

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