正文 四 - 8

「君その娘は寒月の所へ來たがってるのか。金田や鼻はどうでも構わんが、娘自身の意向はどうなんだ」

「そりゃ、その――何だね――何でも――え、來たがってるんだろうじゃないか」鈴木君の挨拶は少々曖昧(あいまい)である。実は寒月君の事だけ聞いて復命さえすればいいつもりで、御嬢さんの意向までは確かめて來なかったのである。従って円転滑脫(かつだつ)の鈴木君もちょっと狼狽(ろうばい)の気味に見える。

「だろうた判然しない言葉だ」と主人は何事によらず、正面から、どやし付けないと気がすまない。

「いや、これゃちょっと僕の雲いようがわるかった。令嬢の方でもたしかに意(い)があるんだよ。いえ全くだよ――え?――細君が僕にそう雲ったよ。何でも時々は寒月君の悪口を雲う事もあるそうだがね」

「あの娘がか」

「ああ」

「怪(け)しからん奴だ、悪口を雲うなんて。第一それじゃ寒月に意(い)がないんじゃないか」

「そこがさ、世の中は妙なもので、自分の好いている人の悪口などは殊更(ことさら)雲って見る事もあるからね」

「そんな愚(ぐ)な奴がどこの國にいるものか」と主人は斯様(かよう)な人情の機微に立ち入った事を雲われても頓(とん)と感じがない。

「その愚な奴が隨分世の中にゃあるから仕方がない。現に金田の妻君もそう解釈しているのさ。戸惑(とまど)いをした糸瓜(へちま)のようだなんて、時々寒月さんの悪口を雲いますから、よっぽど心の中(うち)では思ってるに相違ありませんと」

主人はこの不可思議な解釈を聞いて、あまり思い掛けないものだから、眼を丸くして、返答もせず、鈴木君の顔を、大道易者(だいどうえきしゃ)のように眤(じっ)と見つめている。鈴木君はこいつ、この様子では、ことによるとやり損なうなと疳(かん)づいたと見えて、主人にも判斷の出來そうな方面へと話頭を移す。

「君考えても分るじゃないか、あれだけの財産があってあれだけの器量なら、どこへだって相応の家(うち)へやれるだろうじゃないか。寒月だってえらいかも知れんが身分から雲や――いや身分と雲っちゃ失禮かも知れない。――財産と雲う點から雲や、まあ、だれが見たって釣り合わんのだからね。それを僕がわざわざ出張するくらい両親が気を揉(も)んでるのは本人が寒月君に意があるからの事じゃあないか」と鈴木君はなかなかうまい理窟をつけて説明を與える。今度は主人にも納得が出來たらしいのでようやく安心したが、こんなところにまごまごしているとまた吶喊(とっかん)を喰う危険があるから、早く話しの歩を進めて、一刻も早く使命を完(まっと)うする方が萬全の策と心付いた。

「それでね。今雲う通りの訳であるから、先方で雲うには何も金銭や財産はいらんからその代り當人に附屬した資格が欲しい――資格と雲うと、まあ肩書だね、――博士になったらやってもいいなんて威張ってる次第じゃない――誤解しちゃいかん。せんだって細君の來た時は迷亭君がいて妙な事ばかり雲うものだから――いえ君が悪いのじゃない。細君も君の事を御世辭のない正直ないい方(かた)だと賞(ほ)めていたよ。全く迷亭君がわるかったんだろう。――それでさ本人が博士にでもなってくれれば先方でも世間へ対して肩身が広い、面目(めんぼく)があると雲うんだがね、どうだろう、近々(きんきん)の內水島君は博士論文でも呈出して、博士の學位を受けるような運びには行くまいか。なあに――金田だけなら博士も學士もいらんのさ、ただ世間と雲う者があるとね、そう手軽にも行かんからな」

こう雲われて見ると、先方で博士を請求するのも、あながち無理でもないように思われて來る。無理ではないように思われて來れば、鈴木君の依頼通りにしてやりたくなる。主人を活(い)かすのも殺すのも鈴木君の意のままである。なるほど主人は単純で正直な男だ。

「それじゃ、今度寒月が來たら、博士論文をかくように僕から勧めて見よう。しかし當人が金田の娘を貰うつもりかどうだか、それからまず問い正(ただ)して見なくちゃいかんからな」

「問い正すなんて、君そんな角張(かどば)った事をして物が纏(まと)まるものじゃない。やっぱり普通の談話の際にそれとなく気を引いて見るのが一番近道だよ」

「気を引いて見る?」

「うん、気を引くと雲うと語弊があるかも知れん。――なに気を引かんでもね。話しをしていると自然分るもんだよ」

「君にゃ分るかも知れんが、僕にゃ判然と聞かん事は分らん」

「分らなけりゃ、まあ好いさ。しかし迷亭君見たように余計な茶々を入れて打(ぶ)ち壊(こ)わすのは善くないと思う。仮令(たとい)勧めないまでも、こんな事は本人の隨意にすべきはずのものだからね。今度寒月君が來たらなるべくどうか邪魔をしないようにしてくれ給え。――いえ君の事じゃない、あの迷亭君の事さ。あの男の口にかかると到底助かりっこないんだから」と主人の代理に迷亭の悪口をきいていると、噂(うわさ)をすれば陰の喩(たとえ)に洩(も)れず迷亭先生例のごとく勝手口から飄然(ひょうぜん)と春風(しゅんぷう)に乗じて舞い込んで來る。

「いやー珍客だね。僕のような狎客(こうかく)になると苦沙彌(くしゃみ)はとかく粗略にしたがっていかん。何でも苦沙彌のうちへは十年に一遍くらいくるに限る。この菓子はいつもより上等じゃないか」と藤村(ふじむら)の羊羹(ようかん)を無雑作(むぞうさ)に頬張(ほおば)る。鈴木君はもじもじしている。主人はにやにやしている。迷亭は口をもがもがさしている。吾輩はこの瞬時の光景を椽側(えんがわ)から拝見して無言劇と雲うものは優に成立し得ると思った。禪家(ぜんけ)で無言の問答をやるのが以心伝心であるなら、この無言の芝居も明かに以心伝心の幕である。すこぶる短かいけれどもすこぶる鋭どい幕である。

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