正文 三 - 12

「寒月君、君の事を譫語(うわごと)にまで言った婦人の名は、當時秘密であったようだが、もう話しても善かろう」と迷亭がからかい出す。「御話しをしても、私だけに関する事なら差支(さしつか)えないんですが、先方の迷惑になる事ですから」「まだ駄目かなあ」「それに○○博士夫人に約束をしてしまったもんですから」「他言をしないと雲う約束かね」「ええ」と寒月君は例のごとく羽織の紐(ひも)をひねくる。その紐は売品にあるまじき紫色である。「その紐の色は、ちと天保調(てんぽうちょう)だな」と主人が寢ながら雲う。主人は金田事件などには無頓著である。「そうさ、到底(とうてい)日露戦爭時代のものではないな。陣笠(じんがさ)に立葵(たちあおい)の紋の付いたぶっ割(さ)き羽織でも著なくっちゃ納まりの付かない紐だ。織田信長が聟入(むこいり)をするとき頭の髪を茶筌(ちゃせん)に結(い)ったと雲うがその節用いたのは、たしかそんな紐だよ」と迷亭の文句はあいかわらず長い。「実際これは爺(じじい)が長州征伐の時に用いたのです」と寒月君は真面目である。「もういい加減に博物館へでも獻納してはどうだ。首縊りの力學の演者、理學士水島寒月君ともあろうものが、売れ殘りの旗本のような出(い)で立(たち)をするのはちと體面に関する訳だから」「御忠告の通りに致してもいいのですが、この紐が大変よく似合うと雲ってくれる人もありますので――」「誰だい、そんな趣味のない事を雲うのは」と主人は寢返りを打ちながら大きな聲を出す。「それは御存じの方なんじゃないんで――」「御存じでなくてもいいや、一體誰だい」「去る女性(にょしょう)なんです」「ハハハハハよほど茶人だなあ、當てて見ようか、やはり隅田川の底から君の名を呼んだ女なんだろう、その羽織を著てもう一返御駄仏(おだぶつ)を極(き)め込んじゃどうだい」と迷亭が橫合から飛び出す。「へへへへへもう水底から呼んではおりません。ここから乾(いぬい)の方角にあたる清浄(しょうじょう)な世界で……」「あんまり清浄でもなさそうだ、毒々しい鼻だぜ」「へえ?」と寒月は不審な顔をする。「向う橫丁の鼻がさっき押しかけて來たんだよ、ここへ、実に僕等二人は驚いたよ、ねえ苦沙彌君」「うむ」と主人は寢ながら茶を飲む。「鼻って誰の事です」「君の親愛なる久遠(くおん)の女性(にょしょう)の御母堂様だ」「へえー」「金田の妻(さい)という女が君の事を聞きに來たよ」と主人が真面目に説明してやる。驚くか、嬉しがるか、恥ずかしがるかと寒月君の様子を窺(うかが)って見ると別段の事もない。例の通り靜かな調子で「どうか私に、あの娘を貰ってくれと雲う依頼なんでしょう」と、また紫の紐をひねくる。「ところが大違さ。その御母堂なるものが偉大なる鼻の所有主(ぬし)でね……」迷亭が半(なか)ば言い懸けると、主人が「おい君、僕はさっきから、あの鼻について俳體詩(はいたいし)を考えているんだがね」と木に竹を接(つ)いだような事を雲う。隣の室(へや)で妻君がくすくす笑い出す。「隨分君も呑気(のんき)だなあ出來たのかい」「少し出來た。第一句がこの顔に鼻祭りと雲うのだ」「それから?」「次がこの鼻に神酒供えというのさ」「次の句は?」「まだそれぎりしか出來ておらん」「面白いですな」と寒月君がにやにや笑う。「次へ穴二つ幽かなりと付けちゃどうだ」と迷亭はすぐ出來る。すると寒月が「奧深く毛も見えずはいけますまいか」と各々(おのおの)出鱈目(でたらめ)を並べていると、垣根に近く、往來で「今戸焼(いまどやき)の狸(たぬき)今戸焼の狸」と四五人わいわい雲う聲がする。主人も迷亭もちょっと驚ろいて表の方を、垣の隙(すき)からすかして見ると「ワハハハハハ」と笑う聲がして遠くへ散る足の音がする。「今戸焼の狸というな何だい」と迷亭が不思議そうに主人に聞く。「何だか分らん」と主人が答える。「なかなか振(ふる)っていますな」と寒月君が批評を加える。迷亭は何を思い出したか急に立ち上って「吾輩は年來美學上の見地からこの鼻について研究した事がございますから、その一斑(いっぱん)を披瀝(ひれき)して、御両君の清聴を煩(わずら)わしたいと思います」と演舌の真似をやる。主人はあまりの突然にぼんやりして無言のまま迷亭を見ている。寒月は「是非承(うけたまわ)りたいものです」と小聲で雲う。「いろいろ調べて見ましたが鼻の起源はどうも確(しか)と分りません。第一の不審は、もしこれを実用上の道具と仮定すれば穴が二つでたくさんである。何もこんなに橫風(おうふう)に真中から突き出して見る必用がないのである。ところがどうしてだんだん御覧のごとく斯様(かよう)にせり出して參ったか」と自分の鼻を抓(つま)んで見せる。「あんまりせり出してもおらんじゃないか」と主人は御世辭のないところを雲う。「とにかく引っ込んではおりませんからな。ただ二個の孔(あな)が併(なら)んでいる狀體と混同なすっては、誤解を生ずるに至るかも計られませんから、予(あらかじ)め御注意をしておきます。――で愚見によりますと鼻の発達は吾々人間が鼻汁(はな)をかむと申す微細なる行為の結果が自然と蓄積してかく著明なる現象を呈出したものでございます」「佯(いつわ)りのない愚見だ」とまた主人が寸評を挿入(そうにゅう)する。「御承知の通り鼻汁(はな)をかむ時は、是非鼻を抓みます、鼻を抓んで、ことにこの局部だけに刺激を與えますと、進化論の大原則によって、この局部はこの刺激に応ずるがため他に比例して不相當な発達を致します。皮も自然堅くなります、肉も次第に硬(かた)くなります。ついに凝(こ)って骨となります」「それは少し――そう自由に肉が骨に一足飛に変化は出來ますまい」と理學士だけあって寒月君が抗議を申し込む。迷亭は何喰わぬ顔で陳(の)べ続ける。「いや御不審はごもっともですが論より証拠この通り骨があるから仕方がありません。すでに骨が出來る。骨は出來ても鼻汁(はな)は出ますな。出ればかまずにはいられません。この作用で骨の左右が削(けず)り取られて細い高い隆起と変化して參ります――実に恐ろしい作用です。點滴(てんてき)の石を穿(うが)つがごとく、賓頭顱(びんずる)の頭が自(おのず)から光明を放つがごとく、不思議薫(ふしぎくん)不思議臭(ふしぎしゅう)の喩(たとえ)のごとく、斯様(かよう)に鼻筋が通って堅くなります。「それでも君のなんぞ、ぶくぶくだぜ」「演者自身の局部は回護(かいご)の恐れがありますから、わざと論じません。かの金田の御母堂の持たせらるる鼻のごときは、もっとも発達せるもっとも偉大なる天下の珍品として御両君に紹介しておきたいと思います」寒月君は思わずヒヤヤヤと雲う。「しかし物も極度に達しますと偉観には相違ございませんが何となく怖(おそろ)しくて近づき難いものであります。あの鼻樑(びりょう)などは素晴しいには違いございませんが、少々峻嶮(しゅんけん)過ぎるかと思われます。古人のうちにてもソクラチス、ゴールドスミスもしくはサッカレーの鼻などは構造の上から雲うと隨分申し分はございましょうがその申し分のあるところに愛嬌(あいきょう)がございます。鼻高きが故に貴(たっと)からず、奇(き)なるがために貴しとはこの故でもございましょうか。下世話(げせわ)にも鼻より団子と申しますれば美的価値から申しますとまず迷亭くらいのところが適當かと存じます」寒月と主人は「フフフフ」と笑い出す。迷亭自身も愉快そうに笑う。「さてただ今(いま)まで弁じましたのは――」「先生弁じましたは少し講釈師のようで下品ですから、よしていただきましょう」と寒月君は先日の復讐(ふくしゅう)をやる。「さようしからば顔を洗って出直しましょうかな。――ええ――これから鼻と顔の権衡(けんこう)に一言(いちごん)論及したいと思います。他に関係なく単獨に鼻論をやりますと、かの御母堂などはどこへ出しても恥ずかしからぬ鼻――鞍馬山(くらまやま)で展覧會があっても恐らく一等賞だろうと思われるくらいな鼻を所有していらせられますが、悲しいかなあれは眼、口、その他の諸先生と何等の相談もなく出來上った鼻であります。ジュリアス·シーザーの鼻は大したものに相違ございません。しかしシーザーの鼻を鋏(はさみ)でちょん切って、當家の貓の顔へ安置したらどんな者でございましょうか。喩(たと)えにも貓の額(ひたい)と雲うくらいな地面へ、英雄の鼻柱が突兀(とっ

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