正文 三 - 6

主人のうちへ女客は稀有(けう)だなと見ていると、かの鋭どい聲の所有主は縮緬(ちりめん)の二枚重ねを畳へ擦(す)り付けながら這入(はい)って來る。年は四十の上を少し超(こ)したくらいだろう。抜け上った生(は)え際(ぎわ)から前髪が堤防工事のように高く聳(そび)えて、少なくとも顔の長さの二分の一だけ天に向ってせり出している。眼が切り通しの坂くらいな勾配(こうばい)で、直線に釣るし上げられて左右に対立する。直線とは鯨(くじら)より細いという形容である。鼻だけは無暗に大きい。人の鼻を盜んで來て顔の真中へ據(す)え付けたように見える。三坪ほどの小庭へ招魂社(しょうこんしゃ)の石燈籠(いしどうろう)を移した時のごとく、獨(ひと)りで幅を利かしているが、何となく落ちつかない。その鼻はいわゆる鍵鼻(かぎばな)で、ひと度(たび)は精一杯高くなって見たが、これではあんまりだと中途から謙遜(けんそん)して、先の方へ行くと、初めの勢に似ず垂れかかって、下にある唇を覗(のぞ)き込んでいる。かく著(いちじ)るしい鼻だから、この女が物を言うときは口が物を言うと雲わんより、鼻が口をきいているとしか思われない。吾輩はこの偉大なる鼻に敬意を表するため、以來はこの女を稱して鼻子(はなこ)鼻子と呼ぶつもりである。鼻子は先ず初対面の挨拶を終って「どうも結構な御住居(おすまい)ですこと」と座敷中を睨(ね)め廻わす。主人は「噓をつけ」と腹の中で言ったまま、ぷかぷか煙草(たばこ)をふかす。迷亭は天井を見ながら「君、ありゃ雨洩(あまも)りか、板の木目(もくめ)か、妙な模様が出ているぜ」と暗に主人を促(うな)がす。「無論雨の洩りさ」と主人が答えると「結構だなあ」と迷亭がすまして雲う。鼻子は社交を知らぬ人達だと腹の中で憤(いきどお)る。しばらくは三人鼎坐(ていざ)のまま無言である。

「ちと伺いたい事があって、參ったんですが」と鼻子は再び話の口を切る。「はあ」と主人が極めて冷淡に受ける。これではならぬと鼻子は、「実は私はつい御近所で――あの向う橫丁の角屋敷(かどやしき)なんですが」「あの大きな西洋館の倉のあるうちですか、道理であすこには金田(かねだ)と雲う標札(ひょうさつ)が出ていますな」と主人はようやく金田の西洋館と、金田の倉を認識したようだが金田夫人に対する尊敬の度合(どあい)は前と同様である。「実は宿(やど)が出まして、御話を伺うんですが會社の方が大変忙がしいもんですから」と今度は少し利(き)いたろうという眼付をする。主人は一向(いっこう)動じない。鼻子の先刻(さっき)からの言葉遣いが初対面の女としてはあまり存在(ぞんざい)過ぎるのですでに不平なのである。「會社でも一つじゃ無いんです、二つも三つも兼ねているんです。それにどの會社でも重役なんで――多分御存知でしょうが」これでも恐れ入らぬかと雲う顔付をする。元來ここの主人は博士とか大學教授とかいうと非常に恐縮する男であるが、妙な事には実業家に対する尊敬の度は極めて低い。実業家よりも中學校の先生の方がえらいと信じている。よし信じておらんでも、融通の利かぬ性質として、到底実業家、金満家の恩顧を蒙(こうむ)る事は覚束(おぼつか)ないと諦(あき)らめている。いくら先方が勢力家でも、財産家でも、自分が世話になる見込のないと思い切った人の利害には極めて無頓著である。それだから學者社會を除いて他の方面の事には極めて迂濶(うかつ)で、ことに実業界などでは、どこに、だれが何をしているか一向知らん。知っても尊敬畏服の念は毫(ごう)も起らんのである。鼻子の方では天(あめ)が下(した)の一隅にこんな変人がやはり日光に照らされて生活していようとは夢にも知らない。今まで世の中の人間にも大分(だいぶ)接して見たが、金田の妻(さい)ですと名乗って、急に取扱いの変らない場合はない、どこの會へ出ても、どんな身分の高い人の前でも立派に金田夫人で通して行かれる、いわんやこんな燻(くすぶ)り返った老書生においてをやで、私(わたし)の家(うち)は向う橫丁の角屋敷(かどやしき)ですとさえ雲えば職業などは聞かぬ先から驚くだろうと予期していたのである。

「金田って人を知ってるか」と主人は無雑作(むぞうさ)に迷亭に聞く。「知ってるとも、金田さんは僕の伯父の友達だ。この間なんざ園遊會へおいでになった」と迷亭は真面目な返事をする。「へえ、君の伯父さんてえな誰だい」「牧山男爵(まきやまだんしゃく)さ」と迷亭はいよいよ真面目である。主人が何か雲おうとして雲わぬ先に、鼻子は急に向き直って迷亭の方を見る。迷亭は大島紬(おおしまつむぎ)に古渡更紗(こわたりさらさ)か何か重ねてすましている。「おや、あなたが牧山様の――何でいらっしゃいますか、ちっとも存じませんで、はなはだ失禮を致しました。牧山様には始終御世話になると、宿(やど)で毎々御噂(おうわさ)を致しております」と急に叮嚀(ていねい)な言葉使をして、おまけに御辭儀までする、迷亭は「へええ何、ハハハハ」と笑っている。主人はあっ気(け)に取られて無言で二人を見ている。「たしか娘の縁辺(えんぺん)の事につきましてもいろいろ牧山さまへ御心配を願いましたそうで……」「へえー、そうですか」とこればかりは迷亭にもちと唐突(とうとつ)過ぎたと見えてちょっと魂消(たまげ)たような聲を出す。「実は方々からくれくれと申し込はございますが、こちらの身分もあるものでございますから、滅多(めった)な所(とこ)へも片付けられませんので……」「ごもっともで」と迷亭はようやく安心する。「それについて、あなたに伺おうと思って上がったんですがね」と鼻子は主人の方を見て急に存在(ぞんざい)な言葉に返る。「あなたの所へ水島寒月(みずしまかんげつ)という男が度々(たびたび)上がるそうですが、あの人は全體どんな風な人でしょう」「寒月の事を聞いて、何(なん)にするんです」と主人は苦々(にがにが)しく雲う。「やはり御令嬢の御婚儀上の関係で、寒月君の性行(せいこう)の一斑(いっぱん)を御承知になりたいという訳でしょう」と迷亭が気転を利(き)かす。「それが伺えれば大変都合が宜(よろ)しいのでございますが……」「それじゃ、御令嬢を寒月におやりになりたいとおっしゃるんで」「やりたいなんてえんじゃ無いんです」と鼻子は急に主人を參らせる。「ほかにもだんだん口が有るんですから、無理に貰っていただかないだって困りゃしません」「それじゃ寒月の事なんか聞かんでも好いでしょう」と主人も躍起(やっき)となる。「しかし御隠しなさる訳もないでしょう」と鼻子も少々喧嘩腰になる。迷亭は雙方の間に坐って、銀煙管(ぎんぎせる)を軍配団扇(ぐんばいうちわ)のように持って、心の裡(うち)で八卦(はっけ)よいやよいやと怒鳴っている。「じゃあ寒月の方で是非貰いたいとでも雲ったのですか」と主人が正面から鉄砲を喰(くら)わせる。「貰いたいと雲ったんじゃないんですけれども……」「貰いたいだろうと思っていらっしゃるんですか」と主人はこの婦人鉄砲に限ると覚(さと)ったらしい。「話しはそんなに運んでるんじゃありませんが――寒月さんだって満更(まんざら)嬉しくない事もないでしょう」と土俵際で持ち直す。「寒月が何かその御令嬢に戀著(れんちゃく)したというような事でもありますか」あるなら雲って見ろと雲う権幕(けんまく)で主人は反(そ)り返る。「まあ、そんな見當(けんとう)でしょうね」今度は主人の鉄砲が少しも功を奏しない。今まで面白気(おもしろげ)に行司(ぎょうじ)気取りで見物していた迷亭も鼻子の一言(いちごん)に好奇心を挑撥(ちょうはつ)されたものと見えて、煙管(きせる)を置いて前へ乗り出す。「寒月が御嬢さんに付(つ)け文(ぶみ)でもしたんですか、こりゃ愉快だ、新年になって逸話がまた一つ殖(ふ)えて話しの好材料になる」と一人で喜んでいる。「付け文じゃないんです、もっと烈しいんでさあ、御二人とも御承知じゃありませんか」と鼻子は乙(おつ)にからまって來る。「君知ってるか」と主人は狐付きのような顔をして迷亭に聞く。迷亭も馬鹿気(ばかげ)た調子で「僕は知らん、知っていりゃ君だ」とつまらんところで謙遜(けんそん)する。「いえ御両人共(おふたりとも)御存じの事ですよ」と鼻子だけ大得意である。「へえー」と御両人は一度に感じ入る。「御忘れになったら私(わた)しから御話をしまし

上一章目錄+書簽下一頁