正文 三 - 3

「どうも御退屈様、もう帰りましょう」と茶を注(つ)ぎ易(か)えて迷亭の前へ出す。「どこへ行ったんですかね」「どこへ參るにも斷わって行った事の無い男ですから分りかねますが、大方御醫者へでも行ったんでしょう」「甘木さんですか、甘木さんもあんな病人に捕(つら)まっちゃ災難ですな」「へえ」と細君は挨拶のしようもないと見えて簡単な答えをする。迷亭は一向(いっこう)頓著しない。「近頃はどうです、少しは胃の加減が能(い)いんですか」「能(い)いか悪いか頓(とん)と分りません、いくら甘木さんにかかったって、あんなにジャムばかり甞(な)めては胃病の直る訳がないと思います」と細君は先刻(せんこく)の不平を暗(あん)に迷亭に洩(も)らす。「そんなにジャムを甞めるんですかまるで小供のようですね」「ジャムばかりじゃないんで、この頃は胃病の薬だとか雲って大根卸(だいこおろ)しを無暗(むやみ)に甞めますので……」「驚ろいたな」と迷亭は感嘆する。「何でも大根卸(だいこおろし)の中にはジヤスターゼが有るとか雲う話しを新聞で読んでからです」「なるほどそれでジャムの損害を償(つぐな)おうと雲う趣向ですな。なかなか考えていらあハハハハ」と迷亭は細君の訴(うったえ)を聞いて大(おおい)に愉快な気色(けしき)である。「この間などは赤ん坊にまで甞めさせまして……」「ジャムをですか」「いいえ大根卸(だいこおろし)を……あなた。坊や御父様がうまいものをやるからおいでてって、――たまに小供を可愛がってくれるかと思うとそんな馬鹿な事ばかりするんです。二三日前(にさんちまえ)には中の娘を抱いて簞笥(たんす)の上へあげましてね……」「どう雲う趣向がありました」と迷亭は何を聞いても趣向ずくめに解釈する。「なに趣向も何も有りゃしません、ただその上から飛び下りて見ろと雲うんですわ、三つや四つの女の子ですもの、そんな御転婆(おてんば)な事が出來るはずがないです」「なるほどこりゃ趣向が無さ過ぎましたね。しかしあれで腹の中は毒のない善人ですよ」「あの上腹の中に毒があっちゃ、辛防(しんぼう)は出來ませんわ」と細君は大(おおい)に気焔(きえん)を揚げる。「まあそんなに不平を雲わんでも善いでさあ。こうやって不足なくその日その日が暮らして行かれれば上(じょう)の分(ぶん)ですよ。苦沙彌君(くしゃみくん)などは道楽はせず、服裝にも構わず、地味に世帯向(しょたいむ)きに出來上った人でさあ」と迷亭は柄(がら)にない説教を陽気な調子でやっている。「ところがあなた大違いで……」「何か內々でやりますかね。油斷のならない世の中だからね」と飄然(ひょうぜん)とふわふわした返事をする。「ほかの道楽はないですが、無暗(むやみ)に読みもしない本ばかり買いましてね。それも善い加減に見計(みはか)らって買ってくれると善いんですけれど、勝手に丸善へ行っちゃ何冊でも取って來て、月末になると知らん顔をしているんですもの、去年の暮なんか、月々のが溜(たま)って大変困りました」「なあに書物なんか取って來るだけ取って來て構わんですよ。払いをとりに來たら今にやる今にやると雲っていりゃ帰ってしまいまさあ」「それでも、そういつまでも引張る訳にも參りませんから」と妻君は憮然(ぶぜん)としている。「それじゃ、訳を話して書籍費(しょじゃくひ)を削減させるさ」「どうして、そんな言(こと)を雲ったって、なかなか聞くものですか、この間などは貴様は學者の妻(さい)にも似合わん、毫(ごう)も書籍(しょじゃく)の価値を解しておらん、昔(むか)し羅馬(ローマ)にこう雲う話しがある。後學のため聞いておけと雲うんです」「そりゃ面白い、どんな話しですか」迷亭は乗気になる。細君に同情を表しているというよりむしろ好奇心に駆(か)られている。「何んでも昔し羅馬(ローマ)に樽金(たるきん)とか雲う王様があって……」「樽金(たるきん)?樽金はちと妙ですぜ」「私は唐人(とうじん)の名なんかむずかしくて覚えられませんわ。何でも七代目なんだそうです」「なるほど七代目樽金は妙ですな。ふんその七代目樽金がどうかしましたかい」「あら、あなたまで冷かしては立つ瀬がありませんわ。知っていらっしゃるなら教えて下さればいいじゃありませんか、人の悪い」と、細君は迷亭へ食って掛る。「何冷かすなんて、そんな人の悪い事をする僕じゃない。ただ七代目樽金は振(ふる)ってると思ってね……ええお待ちなさいよ羅馬(ローマ)の七代目の王様ですね、こうっとたしかには覚えていないがタークイン·ゼ·プラウドの事でしょう。まあ誰でもいい、その王様がどうしました」「その王様の所へ一人の女が本を九冊持って來て買ってくれないかと雲ったんだそうです」「なるほど」「王様がいくらなら売るといって聞いたら大変な高い事を雲うんですって、あまり高いもんだから少し負けないかと雲うとその女がいきなり九冊の內の三冊を火にくべて焚(や)いてしまったそうです」「惜しい事をしましたな」「その本の內には予言か何かほかで見られない事が書いてあるんですって」「へえー」「王様は九冊が六冊になったから少しは価(ね)も減ったろうと思って六冊でいくらだと聞くと、やはり元の通り一文も引かないそうです、それは亂暴だと雲うと、その女はまた三冊をとって火にくべたそうです。王様はまだ未練があったと見えて、余った三冊をいくらで売ると聞くと、やはり九冊分のねだんをくれと雲うそうです。九冊が六冊になり、六冊が三冊になっても代価は、元の通り一厘も引かない、それを引かせようとすると、殘ってる三冊も火にくべるかも知れないので、王様はとうとう高い御金を出して焚(や)け余(あま)りの三冊を買ったんですって……どうだこの話しで少しは書物のありがた味(み)が分ったろう、どうだと力味(りき)むのですけれど、私にゃ何がありがたいんだか、まあ分りませんね」と細君は一家の見識を立てて迷亭の返答を促(うな)がす。さすがの迷亭も少々窮したと見えて、袂(たもと)からハンケチを出して吾輩をじゃらしていたが「しかし奧さん」と急に何か考えついたように大きな聲を出す。「あんなに本を買って矢鱈(やたら)に詰め込むものだから人から少しは學者だとか何とか雲われるんですよ。この間ある文學雑誌を見たら苦沙彌君(くしゃみくん)の評が出ていましたよ」「ほんとに?」と細君は向き直る。主人の評判が気にかかるのは、やはり夫婦と見える。「何とかいてあったんです」「なあに二三行ばかりですがね。苦沙彌君の文は行雲流水(こううんりゅうすい)のごとしとありましたよ」細君は少しにこにこして「それぎりですか」「その次にね――出ずるかと思えば忽(たちま)ち消え、逝(ゆ)いては長(とこしな)えに帰るを忘るとありましたよ」細君は妙な顔をして「賞(ほ)めたんでしょうか」と心元ない調子である。「まあ賞めた方でしょうな」と迷亭は済ましてハンケチを吾輩の眼の前にぶら下げる。「書物は商買道具で仕方もござんすまいが、よっぽど偏屈(へんくつ)でしてねえ」迷亭はまた別途の方面から來たなと思って「偏屈は少々偏屈ですね、學問をするものはどうせあんなですよ」と調子を合わせるような弁護をするような不即不離の妙答をする。「せんだってなどは學校から帰ってすぐわきへ出るのに著物を著換えるのが面倒だものですから、あなた外套(がいとう)も脫がないで、機へ腰を掛けて御飯を食べるのです。御膳(おぜん)を火燵櫓(こたつやぐら)の上へ乗せまして――私は御櫃(おはち)を抱(かか)えて坐っておりましたがおかしくって……」「何だかハイカラの首実検のようですな。しかしそんなところが苦沙彌君の苦沙彌君たるところで――とにかく月並(つきなみ)でない」と切(せつ)ない褒(ほ)め方をする。「月並か月並でないか女には分りませんが、なんぼ何でも、あまり亂暴ですわ」「しかし月並より好いですよ」と無暗に加勢すると細君は不満な様子で「一體、月並月並と皆さんが、よくおっしゃいますが、どんなのが月並なんです」と開き直って月並の定義を質問する、「月並ですか、月並と雲うと――さようちと説明しにくいのですが……」「そんな曖昧(あいまい)なものなら月並だって好さそうなものじゃありませんか」と細君は女人(にょにん)一流の論理法で詰め寄せる。「曖昧じゃありませんよ、ちゃんと分っています、ただ説明しにくいだけの事でさあ」「何でも自分の嫌いな事を月並と雲うんでしょう」と細君は我(わ

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