正文 二 - 11

「あんな聲を出して何の呪(まじな)いになるか知らん。御維新前(ごいっしんまえ)は中間(ちゅうげん)でも草履(ぞうり)取りでも相応の作法は心得たもので、屋敷町などで、あんな顔の洗い方をするものは一人もおらなかったよ」「そうでございましょうともねえ」

下女は無暗(むやみ)に感服しては、無暗にねえを使用する。

「あんな主人を持っている貓だから、どうせ野良貓(のらねこ)さ、今度來たら少し叩(たた)いておやり」「叩いてやりますとも、三毛の病気になったのも全くあいつの御蔭に相違ございませんもの、きっと讐(かたき)をとってやります」

飛んだ冤罪(えんざい)を蒙(こうむ)ったものだ。こいつは滅多(めった)に近(ち)か寄(よ)れないと三毛子にはとうとう逢わずに帰った。

帰って見ると主人は書斎の中(うち)で何か沈吟(ちんぎん)の體(てい)で筆を執(と)っている。二絃琴(にげんきん)の御師匠さんの所(とこ)で聞いた評判を話したら、さぞ怒(おこ)るだろうが、知らぬが仏とやらで、うんうん雲いながら神聖な詩人になりすましている。

ところへ當分多忙で行かれないと雲って、わざわざ年始狀をよこした迷亭君が飄然(ひょうぜん)とやって來る。「何か新體詩でも作っているのかね。面白いのが出來たら見せたまえ」と雲う。「うん、ちょっとうまい文章だと思ったから今翻訳して見ようと思ってね」と主人は重たそうに口を開く。「文章?誰(だ)れの文章だい」「誰れのか分らんよ」「無名氏か、無名氏の作にも隨分善いのがあるからなかなか馬鹿に出來ない。全體どこにあったのか」と問う。「第二読本」と主人は落ちつきはらって答える。「第二読本?第二読本がどうしたんだ」「僕の翻訳している名文と雲うのは第二読本の中(うち)にあると雲う事さ」「冗談(じょうだん)じゃない。孔雀の舌の讐(かたき)を際(きわ)どいところで討とうと雲う寸法なんだろう」「僕は君のような法螺吹(ほらふ)きとは違うさ」と口髯(くちひげ)を捻(ひね)る。泰然たるものだ。「昔(むか)しある人が山陽に、先生近頃名文はござらぬかといったら、山陽が馬子(まご)の書いた借金の催促狀を示して近來の名文はまずこれでしょうと雲ったという話があるから、君の審美眼も存外たしかかも知れん。どれ読んで見給え、僕が批評してやるから」と迷亭先生は審美眼の本家(ほんけ)のような事を雲う。主人は禪坊主が大燈國師(だいとうこくし)の遺誡(ゆいかい)を読むような聲を出して読み始める。「巨人(きょじん)、引力(いんりょく)」「何だいその巨人引力と雲うのは」「巨人引力と雲う題さ」「妙な題だな、僕には意味がわからんね」「引力と雲う名を持っている巨人というつもりさ」「少し無理なつもりだが表題だからまず負けておくとしよう。それから早々(そうそう)本文を読むさ、君は聲が善いからなかなか面白い」「雑(ま)ぜかえしてはいかんよ」と予(あらか)じめ念を押してまた読み始める。

ケートは窓から外面(そと)を眺(なが)める。小児(しょうに)が球(たま)を投げて遊んでいる。彼等は高く球を空中に擲(なげう)つ。球は上へ上へとのぼる。しばらくすると落ちて來る。彼等はまた球を高く擲つ。再び三度。擲つたびに球は落ちてくる。なぜ落ちるのか、なぜ上へ上へとのみのぼらぬかとケートが聞く。「巨人が地中に住む故に」と母が答える。「彼は巨人引力である。彼は強い。彼は萬物を己(おの)れの方へと引く。彼は家屋を地上に引く。引かねば飛んでしまう。小児も飛んでしまう。葉が落ちるのを見たろう。あれは巨人引力が呼ぶのである。本を落す事があろう。巨人引力が來いというからである。球が空にあがる。巨人引力は呼ぶ。呼ぶと落ちてくる」

「それぎりかい」「むむ、甘(うま)いじゃないか」「いやこれは恐れ入った。飛んだところでトチメンボーの御返禮に預(あずか)った」「御返禮でもなんでもないさ、実際うまいから訳して見たのさ、君はそう思わんかね」と金縁の眼鏡の奧を見る。「どうも驚ろいたね。君にしてこの伎倆(ぎりょう)あらんとは、全く此度(こんど)という今度(こんど)は擔(かつ)がれたよ、降參降參」と一人で承知して一人で喋舌(しゃべ)る。主人には一向(いっこう)通じない。「何も君を降參させる考えはないさ。ただ面白い文章だと思ったから訳して見たばかりさ」「いや実に面白い。そう來なくっちゃ本ものでない。凄(すご)いものだ。恐縮だ」「そんなに恐縮するには及ばん。僕も近頃は水彩畫をやめたから、その代りに文章でもやろうと思ってね」「どうして遠近(えんきん)無差別(むさべつ)黒白(こくびゃく)平等(びょうどう)の水彩畫の比じゃない。感服の至りだよ」「そうほめてくれると僕も乗り気になる」と主人はあくまでも疳違(かんちが)いをしている。

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