正文 二 - 8

東風君は冷めたくなった茶をぐっと飲み干して「実は今日參りましたのは、少々先生に御願があって參ったので」と改まる。「はあ、何か御用で」と主人も負けずに済(す)ます。「御承知の通り、文學美術が好きなものですから……」「結構で」と油を注(さ)す。「同志だけがよりましてせんだってから朗読會というのを組織しまして、毎月一回會合してこの方面の研究をこれから続けたいつもりで、すでに第一回は去年の暮に開いたくらいであります」「ちょっと伺っておきますが、朗読會と雲うと何か節奏(ふし)でも附けて、詩歌(しいか)文章の類(るい)を読むように聞えますが、一體どんな風にやるんです」「まあ初めは古人の作からはじめて、追々(おいおい)は同人の創作なんかもやるつもりです」「古人の作というと白楽天(はくらくてん)の琵琶行(びわこう)のようなものででもあるんですか」「いいえ」「蕪村(ぶそん)の春風馬堤曲(しゅんぷうばていきょく)の種類ですか」「いいえ」「それじゃ、どんなものをやったんです」「せんだっては近松の心中物(しんじゅうもの)をやりました」「近松?あの浄瑠璃(じょうるり)の近松ですか」近松に二人はない。近松といえば戱曲家の近松に極(きま)っている。それを聞き直す主人はよほど愚(ぐ)だと思っていると、主人は何にも分らずに吾輩の頭を叮嚀(ていねい)に撫(な)でている。藪睨(やぶにら)みから惚(ほ)れられたと自認している人間もある世の中だからこのくらいの誤謬(ごびゅう)は決して驚くに足らんと撫でらるるがままにすましていた。「ええ」と答えて東風子(とうふうし)は主人の顔色を窺(うかが)う。「それじゃ一人で朗読するのですか、または役割を極(き)めてやるんですか」「役を極めて懸合(かけあい)でやって見ました。その主意はなるべく作中の人物に同情を持ってその性格を発揮するのを第一として、それに手真似や身振りを添えます。白(せりふ)はなるべくその時代の人を寫し出すのが主で、御嬢さんでも丁稚(でっち)でも、その人物が出てきたようにやるんです」「じゃ、まあ芝居見たようなものじゃありませんか」「ええ衣裝(いしょう)と書割(かきわり)がないくらいなものですな」「失禮ながらうまく行きますか」「まあ第一回としては成功した方だと思います」「それでこの前やったとおっしゃる心中物というと」「その、船頭が御客を乗せて芳原(よしわら)へ行く所(とこ)なんで」「大変な幕をやりましたな」と教師だけにちょっと首を傾(かたむ)ける。鼻から吹き出した日の出の煙りが耳を掠(かす)めて顔の橫手へ廻る。「なあに、そんなに大変な事もないんです。登場の人物は御客と、船頭と、花魁(おいらん)と仲居(なかい)と遣手(やりて)と見番(けんばん)だけですから」と東風子は平気なものである。主人は花魁という名をきいてちょっと苦(にが)い顔をしたが、仲居、遣手、見番という術語について明瞭の智識がなかったと見えてまず質問を呈出した。「仲居というのは娼家(しょうか)の下婢(かひ)にあたるものですかな」「まだよく研究はして見ませんが仲居は茶屋の下女で、遣手というのが女部屋(おんなべや)の助役(じょやく)見たようなものだろうと思います」東風子はさっき、その人物が出て來るように仮色(こわいろ)を使うと雲った癖に遣手や仲居の性格をよく解しておらんらしい。「なるほど仲居は茶屋に隷屬(れいぞく)するもので、遣手は娼家に起臥(きが)する者ですね。次に見番と雲うのは人間ですかまたは一定の場所を指(さ)すのですか、もし人間とすれば男ですか女ですか」「見番は何でも男の人間だと思います」「何を司(つかさ)どっているんですかな」「さあそこまではまだ調べが屆いておりません。その內調べて見ましょう」これで懸合をやった日には頓珍漢(とんちんかん)なものが出來るだろうと吾輩は主人の顔をちょっと見上げた。主人は存外真面目である。「それで朗読家は君のほかにどんな人が加わったんですか」「いろいろおりました。花魁が法學士のK君でしたが、口髯(くちひげ)を生やして、女の甘ったるいせりふを使(つ)かうのですからちょっと妙でした。それにその花魁が癪(しゃく)を起すところがあるので……」「朗読でも癪を起さなくっちゃ、いけないんですか」と主人は心配そうに尋ねる。「ええとにかく表情が大事ですから」と東風子はどこまでも文芸家の気でいる。「うまく癪が起りましたか」と主人は警句を吐く。「癪だけは第一回には、ちと無理でした」と東風子も警句を吐く。「ところで君は何の役割でした」と主人が聞く。「私(わたく)しは船頭」「へー、君が船頭」君にして船頭が務(つと)まるものなら僕にも見番くらいはやれると雲ったような語気を洩(も)らす。やがて「船頭は無理でしたか」と御世辭のないところを打ち明ける。東風子は別段癪に障った様子もない。やはり沈著な口調で「その船頭でせっかくの催しも竜頭蛇尾(りゅうとうだび)に終りました。実は會場の隣りに女學生が四五人下宿していましてね、それがどうして聞いたものか、その日は朗読會があるという事を、どこかで探知して會場の窓下へ來て傍聴していたものと見えます。私(わたく)しが船頭の仮色(こわいろ)を使って、ようやく調子づいてこれなら大丈夫と思って得意にやっていると、……つまり身振りがあまり過ぎたのでしょう、今まで耐(こ)らえていた女學生が一度にわっと笑いだしたものですから、驚ろいた事も驚ろいたし、極(きま)りが悪(わ)るい事も悪るいし、それで腰を折られてから、どうしても後(あと)がつづけられないので、とうとうそれ限(ぎ)りで散會しました」第一回としては成功だと稱する朗読會がこれでは、失敗はどんなものだろうと想像すると笑わずにはいられない。覚えず咽喉仏(のどぼとけ)がごろごろ鳴る。主人はいよいよ柔かに頭を撫(な)でてくれる。人を笑って可愛がられるのはありがたいが、いささか無気味なところもある。「それは飛んだ事で」と主人は正月早々弔詞(ちょうじ)を述べている。「第二回からは、もっと奮発して盛大にやるつもりなので、今日出ましたのも全くそのためで、実は先生にも一つ御入會の上御儘力を仰ぎたいので」「僕にはとても癪なんか起せませんよ」と消極的の主人はすぐに斷わりかける。「いえ、癪などは起していただかんでもよろしいので、ここに賛助員の名簿が」と雲いながら紫の風呂敷から大事そうに小菊版(こぎくばん)の帳面を出す。「これへどうか御署名の上御捺印(ごなついん)を願いたいので」と帳面を主人の膝(ひざ)の前へ開いたまま置く。見ると現今知名な文學博士、文學士連中の名が行儀よく勢揃(せいぞろい)をしている。「はあ賛成員にならん事もありませんが、どんな義務があるのですか」と牡蠣先生(かきせんせい)は掛念(けねん)の體(てい)に見える。「義務と申して別段是非願う事もないくらいで、ただ御名前だけを御記入下さって賛成の意さえ御表(おひょう)し被下(くださ)ればそれで結構です」「そんなら這入(はい)ります」と義務のかからぬ事を知るや否や主人は急に気軽になる。責任さえないと雲う事が分っておれば謀叛(むほん)の連判狀へでも名を書き入れますと雲う顔付をする。加之(のみならず)こう知名の學者が名前を列(つら)ねている中に姓名だけでも入籍させるのは、今までこんな事に出合った事のない主人にとっては無上の光栄であるから返事の勢のあるのも無理はない。「ちょっと失敬」と主人は書斎へ印をとりに這入る。吾輩はぼたりと畳の上へ落ちる。東風子は菓子皿の中のカステラをつまんで一口に頬張(ほおば)る。モゴモゴしばらくは苦しそうである。吾輩は今朝の雑煮(ぞうに)事件をちょっと思い出す。主人が書斎から印形(いんぎょう)を持って出て來た時は、東風子の胃の中にカステラが落ちついた時であった。主人は菓子皿のカステラが一切(ひときれ)足りなくなった事には気が著かぬらしい。もし気がつくとすれば第一に疑われるものは吾輩であろう。

東風子が帰ってから、主人が書斎に入って機の上を見ると、いつの間(ま)にか迷亭先生の手紙が來ている。

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