正文 一 - 7

車屋の黒はその後(ご)跛(びっこ)になった。彼の光沢ある毛は漸々(だんだん)色が褪(さ)めて抜けて來る。吾輩が琥珀(こはく)よりも美しいと評した彼の眼には眼脂(めやに)が一杯たまっている。ことに著るしく吾輩の注意を惹(ひ)いたのは彼の元気の消沈とその體格の悪くなった事である。吾輩が例の茶園(ちゃえん)で彼に逢った最後の日、どうだと雲って尋ねたら「いたちの最後屁(さいごっぺ)と餚屋(さかなや)の天秤棒(てんびんぼう)には懲々(こりごり)だ」といった。

赤松の間に二三段の紅(こう)を綴った紅葉(こうよう)は昔(むか)しの夢のごとく散ってつくばいに近く代る代る花弁(はなびら)をこぼした紅白(こうはく)の山茶花(さざんか)も殘りなく落ち盡した。三間半の南向の椽側に冬の日腳が早く傾いて木枯(こがらし)の吹かない日はほとんど稀(まれ)になってから吾輩の晝寢の時間も狹(せば)められたような気がする。

主人は毎日學校へ行く。帰ると書斎へ立て籠(こも)る。人が來ると、教師が厭(いや)だ厭だという。水彩畫も滅多にかかない。タカジヤスターゼも功能がないといってやめてしまった。小供は感心に休まないで幼稚園へかよう。帰ると唱歌を歌って、毬(まり)をついて、時々吾輩を尻尾(しっぽ)でぶら下げる。

吾輩は御馳走(ごちそう)も食わないから別段肥(ふと)りもしないが、まずまず健康で跛(びっこ)にもならずにその日その日を暮している。鼠は決して取らない。おさんは未(いま)だに嫌(きら)いである。名前はまだつけてくれないが、欲をいっても際限がないから生涯(しょうがい)この教師の家(うち)で無名の貓で終るつもりだ。

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